上杉禅秀の乱

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この話はだいぶ入り組んでいますので、先に登場人物を整理しておきます。

登場人物

関東
足利持氏 鎌倉公方
上杉禅秀 前関東管領
上杉憲基 関東管領。禅秀の後任。
足利満隆 持氏の叔父で舅

京都
足利義持 四代将軍
足利義嗣 義持の異母弟

足利持氏 鎌倉公方に就任

足利義持が四代将軍に就任してから、56年は平穏な日々が続きました。その平穏が破られたのは、関東で起こった、最初は小さな、ある事件によってでした。

関東では応永16年(1409)鎌倉公方足利満兼(みつかね)が没し、嫡男の持氏(もちうじ)が跡を継いで鎌倉公方に就任していました。ところがこの足利持氏。若いだけあって融通が利かず、つっ走る所があったようです。

「ええい!この者の所領を没収してしまえ!」

応永22年(1415)4月。政所の評定にて。鎌倉公方足利持氏は、越幡(おっぱた)六郎という者の所領を没収します。越幡六郎の罪は大したことではなかったので、関東管領上杉禅秀が止めにかかります。

「そこまでしなくても、よろしいではないですか」
「なにをッ!世が没収といったら没収である!」
「関東管領の私が、これほど頼んでもですか」
「そうだ!」

「…よくわかりました。このような法外のご政道では、関東管領の職についていても何の益もない」

腹を立てた上杉禅秀は、病気と称して自宅に引きこもり、程なく辞表を出します。

「ふん。辞めるなら辞めろ。お前の代わりなどいくらもおねわ。しっしっしっし」

足利持氏は上杉禅秀の辞職を認め、かわって、足利持氏は上杉禅秀の後任として、上杉禅秀とは同族ながらライバル関係にあった、上杉憲基(のりもと)を関東管領に任命します。

上杉氏内部の対立

上杉家は藤原北家の流れをくむ名門で、足利尊氏の次男基氏が関東に下って初代鎌倉公方となると、その下で代々関東管領を世襲するようになりました。

上杉家四家
上杉家四家

上杉頼重の孫の代で家が四つに分かれました。扇谷(おおぎがやつ)上杉氏・詫間上杉氏・犬懸(いぬかけ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏です。このうち特に力を持っていたのが犬懸上杉氏と山内上杉氏です。

そして上杉禅秀は犬懸上杉氏の。上杉憲基は山内上杉氏の出身です。なので上杉禅秀と上杉憲基の対立は、個人的なものではなく、家と家を背負った、根深いものがありました。

応永22年(1415)7月。犬懸上杉家を背負う前管領上杉禅秀、山内上杉家を背負う現管領上杉憲基。双方が相手を叩きのめそうと、鎌倉に入り、それぞれの拠点に集結しました。鎌倉はにわかに騒然とします。鎌倉公方足利持氏はさすがにヤバいと考えました。

「鎌倉で騒ぎを起こされたら私の責任問題になる。どうか、ここはどっちも、いったん退いてくれ」

そう説得されて、犬懸上杉家を背負う前管領上杉禅秀、山内上杉家を背負う現管領上杉憲基。双方、しぶしぶながらこの時は退きました。

足利義嗣の不満

この事件はすぐに京都に知らせられました。上杉禅秀が関東管領を辞任し、かわって上杉憲基が関東管領となった。両者はすんでのところで衝突して戦になるところであった、と。

「ふうん…上杉禅秀殿が…」

キラリ目を光らせたのが、足利義嗣です。将軍足利義持の腹違いの弟です。春日局という側妻の腹に生まれたのですが、父義満はむしろ嫡男の義持よりもこの義嗣を溺愛しました。将来は嫡男の義持ではなく義嗣に将軍職を継がせるのではないか?とまで噂されていました。

しかし、義満が死ぬと、義兄である義持が将軍を続け、義嗣には何の役も回ってきませんでした。それで、義嗣はうっくつした不満をたぎらせていました。

「今、上杉禅秀殿は関東管領を辞めさせられて不満であるに違いない。ならば」

足利義嗣は関東に使者を送り、上杉禅秀に同盟を持ち掛けます。共に力をあわせて鎌倉公方を乗っ取りませんかと。

上杉禅秀 味方を集める

「おお…義嗣公が味方してくださるとは!こんな心強いことはない」

さらに上杉禅秀は、別の味方も引き込みます。足利持氏の叔父であり舅である足利満隆です。

「持氏公の政道はメチャクチャですから、いずれ反乱が起こりましょう。他人に天下を取らせるくらいなら、自分で取りませんか。義嗣公も我らに味方してくださるということだし、負けるはずがありません」

「よし!乗った!」

こんな感じで上杉禅秀は不平派をドンドン味方に引き込んでいきました。一年がかりで味方を集めます。

挙兵

応永23年(1416)10月2日夜。突如、鎌倉に上杉禅秀・足利満隆連合軍が乱入します。

「敵襲です!」
「なに!敵?敵とは、どこの敵じゃ!!

鎌倉公方足利持氏は、酒を飲んで寝ていたところで、何が起こったかわかりませんでした。いったい、何がどうなっているのじゃ!とにかく、お逃げくださいッ!…

足利持氏は家来に引っ張られて二階堂の公方屋敷を逃れ、佐介ヶ谷の上杉憲基の屋敷に逃れます。

10月6日。上杉禅秀の連合軍は上杉憲基邸を取り囲み、総攻撃を仕掛けます。

「火を放てッ」

ひゅん、ひゅんひゅん…

「ぐわーーーーーかなわん!!」

足利持氏・上杉憲基は屋敷を放棄し、逃げ出しました。足利持氏は由比ヶ浜から片瀬・腰越を経て小田原まで逃れ、箱根に身をひそめました。上杉憲基は越後に逃げました。

「まずは勝利!」

うぉーーーーー

鬨の声を上げる上杉禅秀軍!

足利義嗣の出奔

急を告げる飛脚は10日後の10月13日、京都に届きました。

「関東管領が鎌倉公方さまにご謀反!!」

「なんと!!」

「いったい、何がどうなっているのでしょう」
「足利持氏殿は、無事なのか」
「箱根に逃げているということです」
「それよりも前々からの噂ですが、この一件、義嗣公が一枚かんでいるという話です」
「なに!義嗣公が…?」

そこで義嗣の屋敷を捜索させたところ、…もぬけの殻でした。

「やられたッ!やはり義嗣は背いていたのだ!探せ。必ず見つけ出せ!!」

そこで京中に捜索網を敷いた所、まもなく洛西の高尾に潜んでいる義嗣が発見されました。すでに髻を切って、出家していました。

「私は無実だ!背いてなどいない!」
「いいからお来しください」

義嗣を取り調べると、驚くべき供述が得られました。

義嗣は上杉禅秀が鎌倉で武装蜂起すると同時に相呼応して、京都で武装蜂起するつもりだったこと。しかし義嗣は独自の軍事力を持たないので、比叡山や興福寺の僧兵をあてにしたこと。しかしそれもうまくいかず、どうにもならなくなって逃げだしたこと。

「なんたること!」

幕府諸将にも、ようやく事の重大さがわかってきました。今までしょせん遠い関東の騒ぎと思い、身に迫ったこととは受け止めていなかったのです。それが、義嗣が背いたことで、自分たちの住む京都や西国にも、騒ぎが飛び火するのだと、実感がわいてきました。とりあえず義嗣は仁和寺に幽閉し、足利持氏に増援を送ります。

上杉禅秀の最期

ドカカッ、ドカカッ、ドカカッ、ドカカッ

年明けて応永24年(1417)正月。駿河の今川範政と越後の上杉房方の軍が、それぞれ西と北から鎌倉に迫っていました。包囲された上杉禅秀軍!

「させるかーーーッ!!」

ドカカッ、ドカカッ、ドカカッ、

上杉禅秀は鎌倉の北で上杉房方軍を迎え撃ち、これを破るも、その間今川範政軍が鎌倉に乱入したため、あわてて鎌倉に引き返します。

ひゅんひゅんひゅん

ずばっ。ずびゅう。ぐはあ。

上杉禅秀は鎌倉で、必死に守り戦いますが、北と西から攻められどうにもならず、正月10日。ついに鎌倉雪の下で一族数十人ともども自害しました。足利持氏はふたたび鎌倉公方の座にもどりました。上杉禅秀の天下はわずか3ヶ月でした。

足利義嗣の最期

「そうか。上杉禅秀はほろんだか…」

報告を受けて、将軍足利義持はひとまず安心しますが、義嗣への捜査は引き続き行われました。義嗣ははじめ仁和寺の興徳庵に、次に相国寺の林光院に幽閉されていました。

「むざむざと殺されてなるものか」

応永25年(1418)正月、足利義嗣は幽閉されていた相国寺を逃げ出します。しかし、

「そこかっ。足利義嗣」
「謀反人、足利義嗣」

ずば、ずばっ

「ぐ、ぐぶう…無念」

捕らえられて殺されました。享年25。父義満の生存中は父の愛を一心に受けたのに、父の死後は義兄義持に憎まれ、幽閉され、悲惨な最期となりました。

次回「足利義持から足利義教へ」に続きます。

解説:左大臣光永

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