足利義満の最期

妻康子を准母となす

応永13年(1406)12月、後小松天皇の母・通用門院が56歳で崩じます。すると義満は言いました。

「天皇在位中に二度諒闇があるのは不吉である」

諒闇、とは天皇の父母が亡くなって天皇が喪に服すことです。すでに後小松天皇は在位中、父である後円融上皇を亡くしているので、今回、母通用門院が亡くなれば諒闇は二度目ということになります。

そこで義満は、二度の諒闇を避けるために、誰かを、後小松天皇の准母、母に準ずる立場に立てようと言い出します。

「さて、問題は誰にするかですが…ちらっ」

義満の言いたいことはわかり切っていました。自分の妻・日野康子を准母に立てたいというのです。それを、自分から言い出すのではなく、人から言ってほしいのです。


日野康子

「ごほん。それでしたら、南御所(日野康子)殿を准母にすればよろしいのでは」

「おお!たしかにそれは、ああ!名案かもしれませんなあ!」

義満は満面に笑みをたたえ、嬉しそうでした。

こうして義満の妻・日野康子は後小松天皇の准母…母に準ずる立場となり、翌年には北山院の尊号を贈られます。

さて、義満の妻康子は、天皇の母・国母と同等の立場になったのです。ということは、つまりどういうことですか?義満自身は、天皇の父に準ずる立場。いはば、上皇に相当する位置に立つこととなります。

(いける…)

義満はさぞかし野心を燃やしたことでしょう。

義嗣への寵愛

義満はすでに息子の義持に将軍職を譲っていましたが、この頃から義持との関係が悪くなっていきました。

「どうも義持はわしの言うことをきかん。それに将軍としての器量に欠ける」

そこで義満は、春日局との間に生まれた別の子を出家させ天台宗の門跡寺院・梶井門跡に入れていたのですが、その子を還俗させて、義嗣と名付けます。義嗣はしばらく見ない間に、見目うるわしき美少年に成長していました。


足利義持と足利義嗣

「おお…」

思わず息を飲む義満。以後、義満は義嗣を溺愛するようになります。

義満は稚児が大好きでした。特に幼い美少年には目がなかったので、義嗣に対しても特別な感情を抱いたのでしょう。

応永15年(1408)3月、義満は後小松天皇の行幸を仰ぎ、北山第にお迎えします。大臣公卿大行列をなしての絢爛豪華な行幸となりました。法服姿の義満と、まだ童装束の義嗣が後小松天皇と家来の一行を迎えます。

「義満、よう招いてくれた。そちらが自慢の義嗣か」

「いやいやまだ子供でして。義嗣、主上にご挨拶をせぬか」

「主上、このたびの行幸、ありがたいことにございます…」

時に義満51歳。後小松天皇26歳。後小松天皇の北山第への行幸は、まるで天皇が上皇を訪ねる時のようでした。そして義嗣は15歳でした。

行幸は20日間にわたって行われ、後小松天皇は猿楽や船遊び、和歌・連歌、蹴鞠など、あらゆる遊びを楽しまれました。しかしこの華やかな席の間、嫡男の義持室町第におり、一日たりとて招かれませんでした。世間の人は噂したでしょうね。

「義満さまの後継者は義持さまのはずなのに。なんだか最近では義持さまより義嗣さまのほうがずっと優遇されている。もしかしたら義満さまは、義持さまでなく義嗣さまを後継者に考えておられるのではないか…?」

しかし当の義持は父に食ってかかるでもなく、沈黙を守っていました。

翌4月、義満は義嗣をともなって内裏に上がり、義嗣の元服式を行います。大臣公卿が多く参列し、たいへん華やかな雰囲気の中、親王元服の形式にのっとって、式は行われました。

「まるで、皇太子扱いではないか…」
「それでなくても義満さまは上皇に准ずるお立場。もしや本当にわが子を天皇にしようと…」
「しいっ、それ以上言ってはまずい!」

こんな声も出てくるわけです。義満が帝位簒奪を狙っていると。将来わが子義嗣を天皇とし、自分は上皇の立場に立って、天皇家を乗っ取ろうとしていた見る人もいます。

もっとも義満自身が帝位簒奪について何か発言した記録はなく、あくまで「推測できる」だけです。実際、義満に帝位簒奪の野心があったのかどうか?今後の研究が待たれるところです。

足利義満の最期

応永15年(1408)4月、義満は内裏でわが子義嗣の元服式を行った頃から体調が悪くなり、5月4日、危篤に陥ります。一時持ち返すも、6日ふたたび悪化して酉の刻(午後6時)頃、亡くなりました。享年51。

遺体は足利家の菩提寺である等持院で荼毘に付されました。中陰の仏事(四十九日)を過ぎて、義満の遺体は相国寺の塔頭・鹿苑院に移され葬られました。また義満の分骨は高野山安養院にも納められました。

その後鹿苑院は足利将軍の位牌を祀る牌所になりましたが、明治時代に廃仏毀釈のあおりを受けて廃寺となり、義満の墓所の正確な位置はわからなくなりました。

尊号

義満の死を受けて、朝廷ではちょっとしたもめ事が起こります。死後、義満に贈る尊号についてです。

「前将軍義満は、今上帝(後小松天皇)が幼少のみぎりよりよく助け奉り、南朝より三種の神器を奪還した。その功績はいかにも大きい」

「とはいえ、義満公はすでに従一位太政大臣。人臣として最高の官位を極めている。そこにさらに尊号を贈るとなると…」

「太上法皇、しかあるまい」

ざわざわ…

法皇は出家した上皇のことです。義満を法皇とよぶことはつまり、義満を上皇と呼ぶことであり、それは、義満を天皇の父として認めることです。当然、猛反発が起こりました。

「とんでもない!いくら功績が大きいといっても皇族でもない義満が法皇?ばかな、先例が無い!」

「先例ならある。弓削道鏡だ」

「弓削道鏡は…天智天皇の孫であるから凡人ではない。義満の場合とは違う」

そんな怪しげな議論が行われましたが、結局、義満に「太上法皇」の尊号を贈ることになりました。それは、生前の義満がもっとも望んだことでした。義満の野望は、死後ようやくかなったわけです。

とはいえ、生きて法皇の立場から権力をふるえるわけでもなく、死んでからの尊号贈与になったのは皮肉なことでした。

「義満は帝位の簒奪を狙っていた。上皇となって、天皇家をのっとろうとしていた。義満の時代こそ、天皇家最大の危機であった」

…そういう説がありますが、実際、どうだったのか?義満はほんとうに帝位の簒奪を考えていたのか?そうでないのか?すべては義満の胸の内のことで、何とも言えません。

義満から義持へ

義満が亡くなると息子の四代将軍義持は、斯波義将ら幕府重臣を集めて、言います。

「世は父のことは大嫌いじゃ!」

「な…!」「なな…!」

いきなりの発言に驚き呆れる幕臣たち。

「世が父によってどれほどキュウクツな思いをしてきたことか!ミジメな思いをしてきたことか!まずは父の愛した弟の義嗣を北山第から追放する。そして父の始めた貿易はやめてしまう」

「な…!」
「義嗣さまの件はともかく、貿易の利益はけして小さいものではなく」

「やかましい!お前ら将軍に逆らうのか!」

…話になりませんでした。すぐに足利義嗣は北山第を追放され、生母春日局の邸宅に移されます。その後、義持は室町第を出て北山第に移りますが、父の住んだ北山第は義持には居心地悪い場所でした。義持はイライラしてきます。

「叩き壊せ!」

北山第の一部を壊し、祖父義詮が住んだ三条万里小路に移し、新しい庁舎を建てます。三条坊門第。通称下御所(しものごしょ)です。それに対して北山第は上御所(かみのごしょ)と呼ばれました。

義持は三条坊門第に住んだのだから三条殿とでも呼びたいところですが、さにあらず。室町殿とよばれました。以後、代々の将軍は、御所の場所にかかわらず室町殿と呼ばれることとなります。それほど、義満の築いた室町第の絢爛豪華さは、人々に強烈なインパクトだったんですね。

次回「上杉禅秀の乱」に続きます。

解説:左大臣光永

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