勘合貿易

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応永8年(1401)5月。京都北山第にて。足利義満は九州の商人・肥富(こいとみ)と僧・祖阿に明国皇帝にあてた国書を託します。

「頼んだぞ」
「お任せください。必ずや、日本と明の間に国交を開いてみせまする」

国書の文言は、

「日本准三后道義、書を大明皇帝陛下に上(たてまつ)る」

こう始まり、義満の代になってから国内をあらかた平定し終えたので、古式にのっとり明の皇帝に貢物をたてまつる趣旨を書きました。あわせて金千両・馬十疋・鎧や刀剣などを贈り、また明から日本に漂着していた者を帰国させました。

義満がこの時点で貿易に乗り出したのは、ようやく国内の情勢が安定してきたためです。

南北朝の合一が実現し、57年間にわたった南北朝の動乱はいちおう終結しました。九州では今川了俊が貿易の窓口として力を蓄えつつありましたが、義満はこれを左遷。さらに、瀬戸内海に力を持っていた大内義弘を討伐。これにより義満は九州~瀬戸内海~京に至るルートを手中におさめました。今こそ貿易に乗り出す条件は整っていました。

使者は無事、明に到着し、応永9年(1402)8月、明の使節を連れて。戻ってきます。義満は北山第に明の使節を迎え、ひざまづいて明の国書を拝見します。

「皇帝陛下のお言葉である。汝、日本国王道義よ、はるばる海をわたって使者を遣わしてきてご苦労。今、明国より二人の使者を遣わす…」

さて明の使節が日本滞在中、明では政変が起こりました。燕王棣(えんおう・たい)が帝位を奪い、即位したのです。世祖永楽帝です。そこで義満は応永10年(1403)、ふたたび明に使者を送ります。禅僧の絶海中津に国書を作らせます。その内容は義満を皇帝の「臣下」とした上で永楽帝の即位を祝うものでした。この時に明の使節も返します。

この返事について、国内ではすぐに反発の声が上がります。

「あの返書の書きっぷりはもっての他だ。天下の重大事である(「今度の返牒は書様以の外なり、是天下の重事也」二条満基の日記)」

「それに、使節への対応も、丁重すぎる!(管領斯波義将・三宝院満済)」

しかし、中国との貿易は中国を上とした朝貢貿易しかありえないことを義満はよく知っていました。名を捨てて実を取る思いだったことでしょう。

こうして明と日本の交易が始まりました。894年に菅原道真によって遣唐使が廃止されて以来、500年ぶりに日本と中国に正式の国交が結ばれたわけです。

(もっとも正式な貿易が行われていなかったというだけで、私貿易はいくらも行われていました。平清盛の日宋貿易が特に有名ですね)

注意すべきは当時の中国との貿易はすべて朝貢貿易である、ということです。つまり、中華の皇帝が全世界の上に君臨しており、周辺の国々は、献上品を奉って、そのお返しをいただく、という形です。周囲の国々はあくまで中国の「臣下」である、という扱いです。

実に傲慢な考えですが、貿易するほうにも大きなメリットがありました。

中国皇帝は世界に君臨し、献上品をもってきた国々に「お返し」を与えるのです。だから下手な「お返し」では中国皇帝のメンツにかかわります。

そこで多くは、持ち込んだものよりずっと大きな「お返し」を得ることができました。貨幣(明銭)という形で、です。経費を引いても十分すぎるほど利益が出たのです。

そこで足利義満は、メンツを捨てて実利を取ったわけです。

しかし、貿易する上で大きな問題がありました。倭寇の存在です。

この頃、朝鮮や中国沿岸に、倭寇という海賊が出没し、人をさらい米を奪い、略奪しまくっていました。貿易船かと思って接触したら倭寇の船で、わあーーーっと襲撃される。そんなことでは困ります。倭寇と、貢物を積んだ正式な船を区別する必要がありました。

そこで、明が各国に与えたのが勘合という札です。もちろん日本にも与えられました。勘合を真ん中から二つに切って、半分を明の組合が、半分を日本の船が持ちます。二つをあわせるて正しく文字があらわれれば、貿易を許可される、という仕組みでした。

勘合を用いたので日明貿易のことを勘合貿易とも言います。

日本→明への輸出品は銅・硫黄などの鉱物。扇子・刀剣・漆器などの細工品。
明→日本への輸入品は明銭(永楽通宝)、生糸、織物、書物などでした。

足利義満は貿易を独占し、貨幣を独占し、大きな利益を上げました。また、中国皇帝に「日本国王」として認定させ、帝位を簒奪することを考えていた、という説もあります。いずれにせよ、義満の明に対する態度は卑屈で弱腰そのものでした。中華かぶれだったんですね。

「父のあの態度…虫図が走る」

息子の義持は義満の中華に対する卑屈さをトコトン嫌いました。それで、義満が死ぬと義持はすぐに日明貿易を停止しています。その後、義持の跡を継いだ六代将軍義教の時に日明貿易は再開します。

次回「足利義満の最期」に続きます。

解説:左大臣光永

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