明徳の乱

この章は非常に話が入り組んでいますので、系図を見ながらお聴きください。簡単に言うと、義満が土岐氏の内紛に介入して土岐氏の勢いをそぎ、ついで山名氏の内紛に介入して山名氏の勢いをそいだ、という話です。

土岐康行の乱

幕府にとって頭が痛いのは有力守護大名の存在でした。守護大名の中には多くの国を所有し力を蓄え、足利将軍家をしのぐほどの勢いの者もありました。足利将軍家は常に有力守護大名から喉笛に刀を突き付けられている状態でした。細川頼之などは、これをまずいと見ます。

「殿、お考えください。将軍家の権威を高めるには」
「うむ。守護大名が大きな力を持っている現状はまずいな」
「そうです。今のうちにつぶしておきませんと」

細川頼之と義満の間で、たびたびそんなことを話し合ったでしょう。

まず標的となったのが、幕府創業の功臣で、美濃・尾張・伊勢三ヶ国を所有する土岐氏です。嘉慶元年(1387)当主土岐頼康が70歳の高齢で死去すると、養子の康行が跡を継ぎます。

「土岐一族を分断するのは、今しかない」

ここぞと義満は、土岐一族の分断工作に乗り出します。義満は美濃・尾張・伊勢三国のうち、土岐康行には美濃・伊勢二国の守護職を相続させ、尾張の守護職は康行の弟、満貞(みつさだ)に相続させました。あえてケンカさせようとしたんですね。

土岐氏 系図
土岐氏 系図

土岐満貞は名前に「満」がふくまれていることからわかるように、足利義満から一字もらっています。つまり足利義満の手下です。

満貞は野心家で、以前から尾張守護職を欲して、兄を憎んでいました。義満はこの康行・満貞兄弟の不和に目をつけ、土岐一族の分断をはかったのです。

さて、康行・満貞兄弟の従弟にあたる土岐詮直(あきなお)は、尾張の守護代を務めていました。そこへ、思いもかけず満貞が守護として赴任してきます。

「なに!満貞が尾張の守護?そんなこと、認めんぞッ」

そこで詮直は討伐に乗り出し、尾張黒田宿で合戦となります。結果は、満貞の惨敗。敗れた満貞は京都に逃げ延び、幕府に訴えます。

「康行・詮直が不法に土地を占拠しています!本来、私に権利があるのに!」

義満はこの訴えをこそ、待っていました。

「けしからん!謀反人土岐康行を討伐せよ」

義満は同族の土岐一族に土岐康行討伐を命じます。明徳元年(1390)閏3月、土岐康行は美濃国池田郡に挙兵するも、攻め滅ぼされました。

戦後、土岐康行の美濃・伊勢の守護職は没収されました。大きくなりすぎた守護大名の力を削り、将軍家の安泰をはかる、という義満の狙いは、こうして実現されました。

六分の一殿

土岐氏の次に義満の標的となったのが山名氏です。

山名氏は上野国山名郷を名字の地とする新田氏の分家です。山名時氏の代で足利にくみして多くの戦功があったため、因幡・丹波・丹後・美作などの守護となり、その子供たちも、丹後・出雲・伯耆・美作・紀伊・因幡・丹波・和泉・但馬・隠岐などの守護に任じられ一族繁栄していました。全国66ヶ国のうち11ヶ国を領有していたため「六分の一殿」と言われていました。

「何としても山名の勢いをそがねば。将来大きな脅威となる…」

細川頼之・足利義満はそう考えて攻撃の機会を狙っていました。

山名氏の内紛

康応元年(1389)時の山名家当主・時義が没すると、義満はここぞと難癖をつけてきます。

「山名時義は生前将軍家に対して不遜な言動があった。その息子たちも不遜な態度が目立つ」

そして義満は、死んだ時義の兄である氏清(うじきよ)と、その娘婿の満幸(みつゆき)に、時義の息子時熙(ときひろ)と養子氏之(うじゆき)の討伐を命じます。

山名氏 系図
山名氏 系図

「そんな、いくらなんでも同族を討つなんて!どうか他の者にお命じください」

氏清・満幸は最初はそんなこと言って拒んでいましたが、恩賞につられてか結局、時熙・氏之の討伐を引き受け、時熙を但馬に、氏之を伯耆に攻め滅ぼしました。恩賞として氏清も満幸も守護職が新たに与えられ、ホクホクでした。

「ふほほっ、こりゃあトクしたなあ」
「お義父さん、やりましたなあ」

義満の挑発

氏清・満幸は次第に驕り高ぶり、やりたい放題やるようになります。ついに勢い余って、仙洞御領(上皇の領土)である出雲国横田庄を横領するに至りました。こうなると義満も黙っていられません。

「ううむ氏清・満幸の驕り高ぶり。目に余るものがある」

そこで義満は、氏清を京都から追放する一方で、追放されていた時熙・氏之の罪を許そうとします。

ようは、一方に肩入れしたかと思うと次はもう一方に肩入れして、仲たがいを誘発したわけです。

満幸は舅である氏清に離反を薦める書状を出します。

「最近の将軍家のやりようは、ことごとくわれら山名一族を滅ぼそうとしているのです。われらが一丸となって京都に攻め上れば、在京の大名どもを打ち破ることは軽いでしょう。もし京都を制圧できれば、土岐一族など、今まで処罰されていた者も、共に立ち上がってくれましょう」

「うむむ…満幸の言うとおり!山名一族、今こそ決起すべし!!」

こうして山名一族は決起します。まんまと義満の挑発に乗ってしまったわけです。しかし氏清は戦うにあたって大義名分を立てることは忘れていませんでした。南朝に使いを立て、長慶天皇より錦の御旗をいただいていたのです。この頃足利幕府に不満を持つ者が南朝と結びつくことは、常套手段でした。

合戦

満幸は2000騎にて丹波から、氏清は3000騎にて堺から、それぞれ京都を目指して攻め上ります。幕府軍はもと平安京の大内裏のあった内野(うちの)に5000騎、堀川の一色邸に義満の奉公衆5000騎を配置しこれを迎え撃ちます。

明徳2年(1391)12月26日、内野にて合戦が行われます。

足利義満方の大内義弘は、首都防衛にあたって、手勢三百騎を皆、馬から降ろさせました。

「なんで馬から下りるんだ…」

そこへ、

「弓を構えーーッ」

「よいか。これは防衛最優先の戦いである。
とにかく敵を都に入れてはならぬ。
敵が逃げたからといって追うな。
徹底して守りを固めろ」

こう支持を出したと伝えられます。

こうして合戦が始まります。

キン、カカン、キン

大内義弘方は大将の指示通り徹底した守りを固める。これに襲いかかる山名勢。時には大内勢が飛び出してくるよう徴発もしたでしょうが…まったく大内方は徴発に乗らず、合戦は4時間経っても決着がつきません出た。

「まずい。このまま消耗戦を強いられると不利だ」

焦る山名勢。

「こうなったら、足利義満の本陣に突撃をかける」

山名勢のその動きをするどく睨んだ大内義弘は、

「今だ、敵の馬を射よ!」

ヒュン、ヒュンヒュンヒュンヒュン、

どがーーーっ

馬は次々と射倒されていきました。このように大内義弘によって山名勢は翻弄され、ついに、山名氏清は討ち死に。

「おのれ足利義満!まだまだ負けぬぞ」

山名満幸は丹波口から突入をはかりますが、足利義満方の軍勢にこれを阻まれます。

「旗を進めよ」

義満の号令を受けて、御馬廻衆(おんうままわりしゅう)三千余騎が突入をしかける。義満の御馬廻衆は馬も具足も、金銀で飾り立てた派手ないでたちでした。それが、

がちゃがちゃがちゃがちゃ

と金銀を鳴らしながら突撃してくる。

「ひ、ひいいぃーーーっ」

山名勢としては恐怖に圧倒されたことでしょう。

山名勢は散々に打ち破られ、山名満幸は単騎、丹波へ落ち延びて行きます。その後、山名満幸はその後諸国を遍歴した挙句、三年後の1394年、京都に上った所を討ち取られました。

戦後の論功行賞で、山名氏が所有していた11ヶ国の守護職のうち、8ヶ国が功績のあった者に与えられました。山名氏はわずか3ヶ国の所有となりました。こうして、有力守護大名の力を削るという義満の方針は着々と形になっていきました。

細川頼之の卒去

山名氏の反乱が鎮まり、幕府の基盤もようやく安泰になった感のある翌明徳3年(1392)3月、前管領細川頼之は64歳で息を引き取りました。死の間際、頼之は弟頼元を義満のもとに遣わし伝言しました。

「常日頃、将軍家をないがしろにしておりました山名一族が、ようやく天罰を受けて滅ぼされました。それを見届けて死んでいくのが私には本望にこざいます」

次回「南北朝の合一」に続きます。

解説:左大臣光永

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