足利義詮から足利義満へ

足利義満誕生

延文3年(1358)4月、足利尊氏が二条万里小路の屋敷で亡くなると、息子の義詮が跡を継いで二代将軍に就任します。この年義詮29歳。同年8月、義詮と側室の紀良子との間に男子が生まれます。後の三代将軍足利義満です。幼名を春王、といいました。

「おお、おお、可愛いのう」

これ以前に、正妻との間に男子が生まれたことがありますが、6歳で夭折していました。だから、なおのこと、義満が生まれて義詮の喜びは大きなものがありました。

南朝軍 四度京都を占領

しかし喜んでばかりもいられませんでした。目下、幕府は南朝という大きな敵を抱えていました。吉野でも九州でも、南朝の勢力が巻き返しをはかって、京都奪還を狙っていました。そこで将軍就任早々、義詮が下した判断は…

「一気に賀名生(あのう)を突いて、打撃を与えよう。その上で、講和に持ち込もう」

延文4年(1359)12月、義詮はみずから軍勢を率いて東寺に入りついで四天王寺に陣を敷き、吉野に下ります。

ウォーーーッ、ウォーーーッ

「だが、やりすぎるな!目的はあくまで講和だ!」

義詮軍は一時は後村上天皇の行在所のある賀生野まで攻め寄せました。しかし、それ以上攻撃せずに京都に引き上げてきました。武力で攻め滅ぼすよりも、幕府の威力を示して、南朝が自主的に降参してくることを期待してのことでした。

しかし、そうはうまく行きませんでした。

「錦の御旗はわれらにあり!都を奪還せよ!!」

ワァーーーッ、ワァーーーッ

康安元年(1361)勢いを盛り返した南朝方が京都を占領。義詮は後光厳上皇を奉じて京都を脱出。近江の武佐寺(近江八幡市)に難を逃れました。

「とほほ…何度こんなことを繰り返せばいいのか」

後光厳上皇は、つくづくお嘆きになります。いったいこの不毛な争いは、いつ終わるのかと!南朝軍が京都を占領したのは、これで四回目でした。!

この混乱の中、四歳の春王は完全に放置され、一時建仁寺大龍庵(だいりゅうあん)に匿われるも、後に播州赤穂の白旗城(しらはたじょう)で、赤松則祐(あかまつのりすけ)のもとで匿われます。

「則祐、父は大丈夫なのか」
「若殿、何も心配はございません。必ずや父君は、南朝方を蹴散らしておいででしょう…」

赤松は天台宗の僧でしたが、大塔宮護良親王をかついで挙兵し、その後尊氏・義詮のもとで戦働きをしました。これからしばらく、義満は白旗城にあって赤松則祐に養育されることとなります。

まもなく義詮は京都を奪還し、義満も京都に戻りました。

義満の名を賜る

貞治5年(1366)12月。関白二条良基が、足利義詮の三条坊門第を訪れ、ある知らせを伝えます。

「義満」

「おお…義満…よい響きですな!」

後光厳上皇の名字から一字いただいて、義満と名を賜りました。またこの日義満は従五位下(じゅごいのげ)に叙せられました。時に義満9歳。

義詮から義満へ

貞治6年(1367)10月から義詮は病にかかり、多くの僧に祈祷をさせましたが、回復の見込みは感じられませんでした。

「義満はまだ10歳。ごほっ…頼之よ、義満のこと、よくよく頼むぞ」

「ははっ、必ずや若君のこと、補佐いたします」

死をさとった義詮は、義満に将軍職を継がせるにあたって、管領の細川頼之に義満の後見を頼みました。管領とは将軍補佐役のことです。

朝廷では義満の新将軍就任ということを受けて義満を正五位下に叙し、左馬頭に任じました。同年12月、足利義詮は亡くなります。享年38。かくして義満は足利家三代将軍に就任しました。

管領 細川頼之

管領細川頼之の細川氏は足利氏の一族です。頼之は四国に赴任していましたが、今回義詮に呼び戻され、息子・義満の養育を託されたのでした。

「さて、これは大変な仕事だぞ」

何しろこの時代、足利政権はいまだ全く不安定な状態でした。そもそも足利政権は北条氏の鎌倉幕府や、後醍醐天皇の建武政権に不満を持つ者たちを集めて大きくなってきました。

いわば不満分子の集まりです。足利氏に絶対的な権威や信頼感があって集まったわけではないわけです。その点が、源頼朝の鎌倉幕府と足利幕府が決定的に違うところです。

足利の権威などどうでもいい。俺にとって都合がいいかどうかだ。そう考える輩が、多かったのです。なので、足利政権下では勢力争いが絶えせんでした。

それに加えて南朝の存在があります。足利政権に不満を持つ者は、あっそう。じゃ俺南朝に行くわと、簡単に南朝に走るのでした。

南朝と北朝のどっちが正当だとか、イデオロギー的な違いとか、歴史的正当性とか、…そんな難しい話は多くの武士にとってはどうでもよく、自分にとってトクになるかどうかでした。

その時の情勢次第で、南朝に走り、また北朝に戻り、またまた南朝に走り…そんなことを繰り返す者もありました。

そんなわけで、足利幕府の権威は、いまだ全く不安定だったのです。

「とにかく将軍の権威づけが必要だ」

頼之は管領に就任するとすぐに禁制五箇条を定め、贅沢を徹底して戒めました。

二条良基の教育

また、京都の公家社会を渡っていくには朝廷の故実や文化に対する知識・教養が欠かせません。そこで細川頼之は、教育係として当時の公家文化の長老的存在であった二条良基を抜擢します。

「よいですかな。和歌というものは、ただ形にのっとって詠めばいいというものではない。古今集、新古今集の歌を最低でも暗記し、過去に詠まれた名歌をふまえて今の心を詠むのです」

「ふうん…難しそうであるな」

こんなふうに、和歌・連歌・管弦・朝廷の儀式に関してなど、義満は二条良基から教育を受けました。これは後に宮廷社会の中で義満が勢いをのばしていくのに大いに役に立ちました。

「大樹を扶持する人也」

将軍をお育てした人である、と、当時の日記に二条良基のことが、そう書かれています。

次回「康暦の政変 細川頼之の失脚」に続きます。

解説:左大臣光永

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