足利尊氏の最期

三上皇拉致

この間、尊氏との講和を受けて南朝方の勅使が京都入りし、基本方針を発表します。

一つ。北朝の神器はニセモノであるから没収する。
一つ。北朝によって行われた官位叙任はすべて停止する。

「なっ…」
「なんという…」

真っ青になる北朝方の公卿たち。ようは、北朝の歴史はすべて「無かったもの」とする。それが南朝方の示した基本方針でした。

「えらいことになった!」
「今からでも南朝の天皇に媚を売っておこう」

こうして、にわかに賀名生参りをする貴族が増えました。

しかし南朝の後村上天皇は、北朝の存続を認めるつもりは全くありませんでした。徹底して北朝を潰す考えでした。

明けて正平7年(1352)2月26日。後村上天皇は、賀名生の行宮を出発します。側近の北畠親房に軍勢を率いさせていました。一行は河内国東条(大阪府可南町付近)・摂津国住吉(大阪府大阪市)を経て八幡(京都府八幡市)に至ります。

「時は熟した。北畠親房よ」
「はっ」

「逆賊足利義詮を追討し、天皇上皇をかたる不逞の輩を連れ去ってこい」
「ははっ」

どかかっ、どかかっ、どかかっ、どかかーーーっ

閏2月20日。北畠親房率いる南朝軍が京都に乱入します。

「ひ、ひいい、大変なことになった」

父尊氏の留守を預かる足利義詮は、何の抵抗もできず、近江に逃げ去ります。南朝方は北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇および直仁親王を拉致し、八幡へ。そのまま賀名生まで連れ去ります。

「やった!京都で南朝方が勝利だ!」

北朝の上皇天皇が南朝方に拉致され賀名生まで連れ去られた。その知らせを受けて、関東でも南朝方が、がぜんいきり立ちます。後醍醐天皇の皇子・宗良親王を擁する新田義興・義宗が鎌倉を奪還し、足利尊氏を鎌倉から追い出しました。

後光厳天皇の践祚

とはいえ尊氏はすぐに鎌倉を奪い返し(武蔵野の戦い)、義詮も京都を奪い返し(八幡の戦い)、南朝の快進撃は一カ月しか持ちませんでした。しかし、いつまた南朝軍が攻めてくるかわからない。京都の足利義詮はジリジリ焦っていました。

「ひとまず北朝の権威を立て直さねば」

そこで義詮は、光厳上皇の皇子・弥仁(いやひと)親王を、後光厳天皇として践祚させます。

後光厳天皇
後光厳天皇

光厳上皇は南朝に連れ去られていていないので、光厳上皇の母・広義門院を上皇に見立て、三種の神器も持ちされれているので三種の神器の入っていた空箱を神器に見立てての践祚でした。そして元号を観応から文和に改めます。

「これで形は整った」

泥沼試合

しかし安心したのもつかの間。今度は九州の足利直冬が南朝と手を組んで、京都に攻め上ってきます。義詮は後光厳天皇を連れて京都を脱出。美濃国小島(おじま。岐阜県揖斐川町)に難を逃れます。

義詮の体たらくを見て、ついに鎌倉の足利尊氏が重い腰を上げます。

「やはり…義詮一人に任せるのは、まだ時期尚早であったか…」

ふたたび鎌倉を後に、西へ向かう尊氏。

(もう何度目だろうか。鎌倉を後にするのは…)

尊氏は美濃で義詮と合流。父子力をあわせて京都に攻め上り、直冬・南朝軍を追い落とします。が、翌文和3年12月、直冬・南朝軍は勢いを盛り返し、京都を奪還。尊氏・義詮軍は近江国武佐寺(近江八幡市)に退却します。

勝利した直冬軍の中にも動揺が走っていました。九州からの遠征であり、補給が間に合わなかったことに加えて、実の父・尊氏を敵に回すことへの罪悪感がありました。直冬自身にも、直冬の将兵たちにも。

「こうなったら石清水八幡宮におうかがいを立てよう」

石清水八幡宮で卜ったところ、「親にはむかう大将に八幡神は味方しない」と託宣が下ったので、ぐうとうなだれて直冬は撤退を決意した、という話が『太平記』には語られています。直冬軍は文和4年()3月、京都から兵を引きました。

「もういい加減にしてくれ!北朝でも、南朝でもどっちだっていいよ!」
「はやく落ち着きたい」

京都の貴族や武士たちは南朝が京都を制圧するたびに南朝につくか、北朝につくか、気を遣わされるのにホトホト疲れ切っていました。もはや北朝・南朝の歴史的成り立ちとか、どっちが正統であるとか、イデオロギー的なものはどうでもよくなっていました。

その時の都合で、北朝についたり南朝についたりを繰り返す者も出てきました。南北朝の動乱の長期化は、精神的にも人々を追い詰め、モラルの低下を招いていました。

そんな中、足利尊氏の健康は確実に弱っていました。

「わしももう長くない…」

尊氏は己の健康状態の悪化を自覚し、後世のために南北朝の動乱に決着をつけることを考えはじめました。今まで直義や直冬についていた者でも、降参すれば罪は問わないという法律を制定し、また、南朝方と和平交渉を進めました。その成果として、延文2年(1357)2月、南朝に連れ去られていた光厳上皇はじめ三上皇が京都に帰還しました。

足利尊氏の最期

延文3年(1358)。 尊氏は九州討伐を企てます。

「九州には懐良親王、直冬、など南朝の勢力が強い。これを討っておかないと、後顧の憂いとなる」

「父上!しかしそのお体では」

「なに、年老いたとはいえ…ごほっ、ごほっ」

「父上!御無理をなさいますな」

結局は健康が悪化して尊氏は九州遠征を断念せざるを得ませんでした。そして背中にできた腫れものの悪化が直接の原因となり、翌4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)第にて、ついに息を引き取りました。享年54。墓は京都・等持院と鎌倉・長寿寺にあります。

尊氏の死からちょうど百日目に、孫の義満が生まれています。

次回「足利義詮から足利義満へ」に続きます。

解説:左大臣光永

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