建武式目と足利幕府の始まり

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足利尊氏の京都入り

8月。尊氏はふたたび上洛を果たし、東寺に陣を構えました。ただちに持明院統の光厳上皇をあらたな治天の君として迎え、その弟・豊仁(とよひと)親王を、新しい帝として擁立します。光明天皇です。新しい帝を立てるとなると、元号も改めなくてはなりません。そこで尊氏は。

「建武」

「なっ…!!」

後醍醐天皇が唱えた「建武」の元号を復活させようと尊氏は言うのです。武家の政権としてふさわしい名前であるという判断か、あるいは尊氏の中に根強く残る後醍醐天皇への罪悪感がそうさせたのでしょうか。どうも尊氏の精神には不安定なところがあります。

尊氏の願文

光明天皇が践祚して2日後の8月17日。尊氏は清水寺に一通の願文を収めています。

この世は夢のようなものです。尊氏に悟りを求める気持ちを起こさせてください。来世のことをお守りください。

そういう内容です。京都を奪い返し、天皇の人事さえ思い通りにあやつり、はたから見れば権力の絶頂ともいえるこの時期に、なぜ、こんなにも弱気なのか。またも尊氏の躁鬱気質が出た感じです。尊氏はあいもかわらず後醍醐天皇への罪悪感にさいなまれ、後醍醐に討伐されることを恐れていました。その恐れが、尊氏の気持ちを現世でなく浄土へと向かわせたのでしょうか。

講和

後醍醐天皇は比叡山に陣取り、京都の尊氏政権に抵抗していました。しかし後醍醐天皇の形勢不利は誰の目にもあきらかでした。

「これ以上帝と争うつもりは無い。穏便に事がすむなら、それが一番だ」

尊氏は、比叡山の後醍醐天皇のもとに講和の使者を遣わします。

「どうしたものか。尊氏は、予と争うつもりは無いと言っているが…」

「何度も牙をむいてきた尊氏を、お信じになるのですか!」

「そのような甘い言葉、信じられるものですか!」

「ううむ…しかし…」

尊氏が提示してきた講和の条件は…、不明です。

しかし状況からいって、光明天皇に譲位させる。そのかわり、光明の皇太子として後醍醐の皇子を立てる、といった所だったでしょう。

後醍醐天皇の群臣は反対しますが、結局後醍醐天皇は足利尊氏の講和を受け入れ、比叡山を下ることにしました。

しかし、その直前、後醍醐天皇は皇太子恒良(つねよし)親王・一宮尊良親王の二人を新田義貞に託し、越前に向かわせます。

「よいか。余にもしものことがあれば、恒良をかついで、越前で兵を挙げるのだ」

「御意にございます」

こうして後醍醐天皇は京都に戻ります。後醍醐への交渉役は、尊氏の弟、直義がつとめました。直義は徹底して後醍醐天皇の建武政権をつぶし後醍醐を廃絶しようという考えでした。そのため後醍醐への態度も強く厳しいものとなりました。

「すみやかに三種の神器を新帝にお譲りください」

「くっ…わかった」

建武三年(1336)11月2日、後醍醐天皇から新帝光明天皇に三種の神器が譲渡されます。そして後醍醐には太上天皇(上皇)の号が贈られます。翌12月、後醍醐の皇子・成仁親王が光明天皇の皇太子に立てられました。

これは足利政権は後醍醐を重んじるという形式的なアピールでした。しかし後醍醐に対する実際の扱いはまるで違っていました。後醍醐は還御早々、花山院という屋敷に幽閉されてしまいます。

「尊氏め…予を騙しおったな…」

建武式目

後醍醐から光明天皇への譲位が行われた5日後の建武三年(1336)11月7日、足利尊氏は二項17ヶ条からなる「建武式目」を発表します。

内容は、本来幕府は鎌倉に置くべきであるが、暫定的に京都に置くこと。質素倹約の奨励。守護職は恩賞によって与えられるべきでなく能力人格のまさった者が守護職に就任すべきこと。賄賂の取り締まりなど。

また、鎌倉幕府初期の義時・泰時時代の政治を理想とすることも歌われていました。暗に鎌倉幕府後半と、後醍醐天皇の建武新政を否定したものでした。

一般にこの建武式目の制定をもって室町幕府(足利幕府)の成立とみます。
(京都室町を御所としたのは三代将軍義満以降なので、それ以前を「室町」幕府というのは厳密にはおかしいのですが、一般的な言葉としては尊氏の時代から室町幕府とよんでいます)

足利尊氏・直義兄弟による新政権は、こうして始まりました。

軍事部門のことは兄尊氏が担当し、政治部門のことは弟直義が担当した、二頭体制であったと一般に説明されますが、実際には軍事・政治部門に関わらず弟直義のほうが新政権樹立に積極的でした。

建武式目もほとんどが直義が起草したものと見られています。

この時期、尊氏は政治のことはほぼ弟に丸投げにして、出家したいとか、後醍醐帝に対して申し訳ないとか、情緒不安定なことばかり言っていました。兄上にも困ったものだ…直義も頭をかかえたでしょうね。

次回「新田義貞・北畠顕家の奮戦・後醍醐天皇の最期」に続きます。

解説:左大臣光永

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