建武新政の挫折と中先代の乱

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元弘3年(1333年)鎌倉幕府は滅びました。

翌1334年正月、後醍醐天皇は元号を建武とあらため、天皇の直接支配による新しい秩序を目指し、政治改革に乗り出します。建武の新政です。

「やるぞ。私がやることが、未来の先例となるのだ」

がぜん張り切る後醍醐天皇。しかし…

低迷する建武新政

後醍醐天皇の建武新政は、低迷を極めました。

まず反発を買ったのが人事です。それまで門閥貴族が世襲してきた官職に、武士が就任したり、楠正成や名和長年のような武士かどうかもわからない得体のしれない者が就任したことにより、既得権を犯された門閥貴族は、猛反発します。

天皇の直接支配による新しい体制を作る。そのために既存の体制を一度徹底して破壊する。それが後醍醐天皇の考えでした。しかし理念を優先するあまり、現実を理念のほうに強引にねじ曲げようとする嫌いがありました。

考えてみてください。長い年月の間、平安京では特定の官職は特定の氏族で世襲する習慣ができていました。後醍醐天皇はこの習慣をいきなり壊して、ぜんぜん関係ない氏族に官職を与えたりしたのです。

官職の独占を防ぎ、人事の流動化をはかる。その考えは立派でした。しかし現実にうまくいくか?いかないです。長年世襲されているとなると、その中で培われてきたノウハウや手順があります。それを、まったく心得の無い素人が引き継ぐ…できるわけが無いです。現場は大いに混乱しました。

「朕の新儀は未来の先例たるべし」

後醍醐天皇は新政の開始にあたってこう言いました。自分がやることが、未来の先例になるということです。逆にいえば、過去の先例には従わない、ということです。これは当時、天地がひっくり返るような大変なことでした。

中世の価値観では、古いものは正しく、新しいものは悪いんです。だから先例を重んじ、改革を嫌います。

現代とは、まるで感覚が違うのです。そういう時代に、後醍醐天皇は、ドカーンと先例を叩き壊すことを、やったのです。結果、大混乱になります。

西園寺公宗の謀反

「まったく!迷惑な御新政だ!」

世の中は大いに混乱しました。

「この頃都に流行るもの 夜討ち 強盗 謀(にせ)綸旨(りんじ)召人(めしうど) 早馬 虚騒動(そらさわぎ)」

…有名な「二条河原落書」は、建武新政の低迷ぶりと天下の不満をうたったものです。

そんな中、一つの陰謀事件が発覚します。

建武2年(1335年)6月、後醍醐天皇のもとに、西園寺公重(さいおんじきんしげ)から、その知らせはもたらされました。

「私の兄西園寺公宗(きんむね)は、北条高時の弟・北条泰家を大将として反乱を企てております!」

「なんと!」

西園寺家は、100年前の承久の乱の時、京都にありながら後鳥羽上皇方の動きを鎌倉幕府に知らせて以後、北条氏と強い結びつきを持っていました。鎌倉と京都の調整役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を代々世襲し、西園寺家は政界で強い発言力を持っていました。

鎌倉幕府滅亡によって関東申次は廃止されましたが、その、最後の関東申次が、件の西園寺公宗です。

話によると、北条高時の弟北条泰家が、鎌倉幕府滅亡の際、奥州に逃れたが、流れ流れて京都に入り、西園寺家公宗のもとにかくまわれていたと。公宗はこの泰家を大将として、信濃にいる北条高時の遺児・北条時行と呼応して、東西同時に反乱を起こすつもりだと。そして持明院党の後伏見法皇を、旗印として担ぎ出すつもりだと。

「なんということ…!!」

絶句しながらも後醍醐天皇はすぐに手を打ちます。後伏見法皇を持明院殿から京極殿に遷し、西園寺公宗一味を逮捕。公宗を即刻流罪とします。しかし、これだけでは安心できません。

「まだまだ全国には、北条の残党がひしめいている…油断はできぬ」

北条の残党による反乱は、この一件だけではありませんでした。

奥州で、南関東で、北九州で、日向で、紀伊で、長門で、伊予で、北条の残党が蜂起していました。そしてこれらの反乱には北条氏の一族だけでなく、北条氏とは無関係に建武政権に不満を持つ者も多く参加していました。

北条氏の残党と、建武政権に不満を持つ者。立場は違えど、建武政権打倒という共通の目的で、両者は結びついていたのです。後醍醐天皇には頭の痛い問題でした。

北条時行の挙兵

一方。

北条高時の遺児・北条時行は、信濃の諏訪に潜伏していました。諏訪の神官をつとめる諏訪氏は、代々北条氏に仕えていたので、北条時行は、その縁をたよって諏訪頼重のもとに身を寄せていたのです。ちなみに戦国時代に武田信玄に滅ぼされた諏訪頼重と同じ名前です。

建武2年(1335年)7月14日。

「滅びし北条一族の恨み。思いしれ!!」

ヒュン、ヒュンヒュン…

ぐはあっ。

北条時行軍は信濃守護・小笠原貞宗の軍勢を青沼(現長野県千曲市小船山)の戦いに撃破。中先代の乱の始まりです。

北条氏を先代、足利氏を後代と見て、その中間にいるのが北条時行だから、中先代の乱というわけです。

また北条時行の天下は二十日ほどだったので、二十日先代の乱ともいいます。

北条時行の軍勢は信濃から武蔵に入り、女影原(おなかげはら。埼玉県日高市)・小手指原(こてさしはら。埼玉県所沢市)・府中と足利軍を破りつつ、鎌倉に迫ります。

中先代の乱 北条時行 進撃ルート
中先代の乱 北条時行 進撃ルート

中先代の乱 北条時行 進撃ルート
中先代の乱 北条時行 進撃ルート

「おのれ北条の死にぞこないめが!!」

迎え撃つは足利尊氏の弟・足利直義です。直義は一昨年の元弘3年(1333年)12月、後醍醐天皇の八宮・成良親王に付き添って鎌倉に下っていました。成良親王はまだ幼いので、実質直義が鎌倉を任されていました。

7月22日。足利直義は武蔵国井出沢(いでのさわ。東京都町田市)に北条時行の軍勢を迎え撃ちます。

ヒュン、ヒュンヒュン…

「退けっ、退けーーーっ!」

結果は惨敗。

護良親王の最期

破れた足利直義はひとまず鎌倉へ帰還します。こうなっては北条時行の軍勢が鎌倉に乱入してくるのは時間の問題でした。しかし、鎌倉はまた奪い返せばいい。それよりも心配なのは、北条時行が、幽閉されている大塔宮護良親王を担ぎ出し、これを旗印として鎌倉幕府を復活させることでした。それは、何としても避けねばならない事態でした。

そこで、足利直義は護良親王の幽閉されている鎌倉二階堂の土牢に、配下の武士・淵辺伊賀守(ふちべいがのかみ)を送りこみます。

この時、護良親王は一日中闇夜のような土牢の中で、朝が来たのも知らず読経していましたが、淵辺伊賀守の輿が庭に止まり、淵辺が土牢の中に入って来ると、

「お前は、私を殺しにきた使いだなッ」

バッ、

激しい乱闘となりますが、

護良親王は9ケ月にわたるの狭い土牢生活のために力が出ず、ううと倒れたその胸の上に、淵辺は馬乗になり、ついに護良親王の首を掻っ切りました。

こうして、護良親王を処置する一方、足利直義は成良親王以下の人々を引き連れて東海道を西へ向かい、三河国矢作(やはぎ。現愛知県岡崎市)に至ります。

北条時行軍はさらに進み、鶴見(横浜市鶴見区)で鎌倉方を撃破。鎌倉に迫ります。建武2年(1335年)7月25日。

北条時行の軍勢は鎌倉に乱入し、北条の旗が2年ぶりに鎌倉にひるがえります。

次回「足利尊氏の鎌倉入り」お楽しみに。

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開催します

今月4月22日(金)東京多摩永山公民館にて、私左大臣光永の語る「鎌倉と北条氏の興亡」を開催します。
http://www.tccweb.jp/tccweb2_025.htm

また、CD-ROM版「聴いて・わかる。日本の歴史~鎌倉と北条氏の興亡」も好評発売中です。
http://sirdaizine.com/CD/His04.html

桜舞い散るこの季節、源氏や北条氏の史跡を訪ねて、鎌倉をぶらぶら歩いてみるのはいかがでしょうか?

本日も左大臣光永がお話いたしました。

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解説:左大臣光永