建武の新政

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元弘3年(1333年)5月、鎌倉幕府は滅びました。

後醍醐天皇はその喜びの知らせを聞くと、伯耆船上山を下り、1年ぶりに京都に入ります。翌元弘4年(1334年)正月、元弘から建武元年とあらためます。

「やるぞ。私のやる事が、未来の先例となるのだ」

後醍醐天皇がやろうとしていたのはどういう政治か?それは、延喜・天暦の昔。醍醐天皇・村上天皇の時代の、天皇が直接、政治を行う、天皇親政という形です。醍醐・村上朝には摂政も関白も置かず、天皇が直接政治を行っていました。それこそ、後醍醐天皇の目指す理想でした。

記録所と雑訴決断所

さし当たって必要なのは、組織の再編でした。

鎌倉幕府滅亡に伴い土地の権利にかかわる裁判がふえていました。そのため後醍醐天皇が設置したのが、記録所(きろくじょ)と、雑訴決断所(ざっそけつだんじょ)です。

記録所と雑訴決断所の職権は重なる部分も多く、明確にここが境界と、言うことができません。ただ記録所は公家を中心とした朝廷の組織であり、雑訴決断所は鎌倉幕府の引付を受け継いだもので、武家を中心とした組織といえました。

建武政権は公家的なものと武家的なものを強引にミックスして組織を作ったので、このように似た機能を持つ二つの組織が生じてしまったわけです。

また地方には、守護と国司を共存させました。旧鎌倉幕府のシステムである守護と、朝廷のシステムである国司を共存させざるを得なかった所に、建武政権の限界がありました。

このように武家にも公家にもバランスを取ろうとした結果、双方からクレームが殺到し、大いに政治が乱れました。

そのほか、鎌倉幕府討伐に功績のあった者が恩賞を求めて殺到していました。これを裁くための恩賞所を設置します。

また天皇の周辺を警護する武者所を設置しました。

大内裏の修復

後醍醐天皇が特に熱を入れた事業が、大内裏の修復です。天皇の住居を大内裏といいますが、歴史を見渡すと実際に大内裏が使われた期間は短く、多くは里内裏とよばれる外戚や大貴族の館を大内裏がわりとして使っていました。ことに承久元年(1219年)の火事で大内裏が焼けてから再建されず、荒れ果てていました。

「これではいけない。天皇が大内裏に住む。そこから世の秩序が定まるのである」

こうして大内裏の再建事業が始まりました。多くの金が必要です。増税が行われます。しかし元弘元年(1331年)以来の戦乱で、国土は疲弊しきっていました。

「この上また増税かよ!」
「内裏?そんもん、どうだっていいよ!」

最終的に負担を押し付けられる庶民の怨みの声は巷に満ちました。結果、大内裏造営計画は棚上げするしかなくなりました。

貨幣の鋳造

次に、貨幣の鋳造です。

日本国内の貨幣の鋳造は10世紀半ば村上天皇の時代を最後に絶え、以後、輸入した宋銭や元銭が使われていました。

「こういうことが乱れのもとなのだ。国家が主体となって貨幣を鋳造し、流通させる。それでこそ世を救い、民は便利になる。結果として、皇室の権威も高まるものだ。この貨幣を、乾坤通宝(けんこんつうほう)と名付けよう。そして紙幣(楮貨(こうぞか))も流通させる」

楮(こうぞ)は紙の材料。つまり楮貨とは、紙幣のことです。紙幣は、中国・元で「鈔銭(しょうせん)」という紙幣が用いられていました。後醍醐天皇の楮貨はこの鈔銭をヒントにしたと思われます。こうして貨幣を鋳造し紙幣を造幣するための役所が作られました。

しかし、乾坤通宝の実物は今日まで一枚も発見されていません。楮貨も、一枚も見つかっていません。おそらく、計画だけで頓挫したのでしょう。このように後醍醐天皇の改革はことごとく裏目に出て、空回りばかりでした。

世の中はおおいに乱れます。この頃京都二条河原の落書に、

この頃都に流行るもの 
夜討ち 強盗 謀(にせ)綸旨(りんじ)
召人(めしうど) 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
生頸(なまくび) 還俗(げんぞく) 自由(まま)出家
俄か大名 迷い者 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
本領離るる訴訟人 文書(もんじょ)入れたる細葛(ほそつづら)
追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 
下克上する成出者(なりづもの)……

建武政権下の世の乱れを皮肉に歌った、有名な「二条河原落書」です。

護良親王の不満

この頃、護良親王はヤケクソ気味でした。父後醍醐天皇に無断で綸旨を乱発したため、征夷大将軍の位もはく奪されてしまいました。その上、都では足利尊氏が日に日に権勢をのばしています。

「くそっ。足利尊氏がどれほどのものというのか。いい気になりおって」

そう言っては酒を飲み、河原芸人を集めては遊びにふけっていました。こりゃダメだ。親王のもとにいても何もならない。誰も彼も、護良親王を見限り、足利尊氏に走ります。護良親王は、精神的に追い詰められていきます。

「くそっ。足利尊氏さえいなければ。いっそ殺してしまおう」

護良親王はわずかな手勢を率いて、足利尊氏襲撃を試みます。ある時は尊氏の屋敷を、ある時は天皇の寺社行幸にお供をした尊氏を殺害しようと試みますが…いずれも失敗に終わりました。尊氏も護良親王の動きを察して、大勢の武士で厳重に警護させていたからです。

「くっ…尊氏に隙なしか」

護良親王は尊氏殺害を諦めるほか、ありませんでした。

護良親王の逮捕

建武元年(1334年)10月22日。護良親王が清涼殿の歌会に参加するため参内した所、

がっ、がっ、

「ぬ!なんじゃお前たちは、無礼な!!」

「皇子さま、御同行願います」

「あ、ああーーっ!!」

結城親光・名和長年の両名に取り押さえられ、護良親王は武者所に連行されました。

「殿下が帝位簒奪を狙っていると、疑いがかかっております」
「バカな。そんなはずがあるか。そうか。足利尊氏の讒言じゃな。おのれ足利尊氏。どこまでの卑怯!!」

『太平記』によると、護良親王に謀反の疑いありと足利尊氏が阿野簾子を通じて後醍醐天皇に訴え、これを後醍醐天皇が受諾し、逮捕となりました。

護良親王はやがて流罪と決まり、鎌倉へ送られます。鎌倉で足利尊氏の弟・足利直義(ただよし)に身柄を託され、二階堂の土牢に幽閉されました。

「くっ…なぜ我がこんな目に…出せっ!出せーーっ!!」

嘆き、罵る護良親王。しかし、どうにもなりませんでした。

翌建武2年(1335年)北条高時の息子・北条時行が鎌倉幕府復活をめざして反乱を起こします。中先代の乱です。この時、鎌倉を守っていた足利尊氏の弟・足利直義は心配しました。北条氏の残党が護良親王を担ぎ出して将軍とし、鎌倉幕府の復活をはかることを。

そこで足利直義は護良親王の元に刺客を差し向け、護良親王を殺害させます。護良親王は哀れ、土牢の中で殺害されました。

鎌倉・二階堂の鎌倉宮は、護良親王を祀った神社です。

詳しくはこちら
鎌倉 二階堂・西御門を歩く(三)
http://sirdaizine.com/travel/Nikaido3.html

次回「建武新政の挫折と中先代の乱」に続きます。

解説:左大臣光永

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