藤原仲麻呂の乱

淳仁天皇の即位

橘奈良麻呂の変(757年)で反対勢力を一掃した藤原仲麻呂は今や権力の頂点にありました。

(ぐふふ…いよいよワシの天下よ)

翌758年には孝謙天皇が譲位して、皇太子の大炊王が即位して淳仁天皇となります。これも仲麻呂にとって飛び上がるほどの嬉しい知らせでした。

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もともと大炊王が皇太子に立てられたのは、仲麻呂の推挙によるものでした。大炊王は仲麻呂の亡き長男真従(まより)の未亡人と結婚しており、仲麻呂の館に住んでいました。

大炊王
【大炊王】

つまり、大炊王は仲麻呂と結びつきがすごく強いのです。その大炊王がいよいよ淳仁天皇として即位したのです。

(しかもミカドはまだ25歳。いくらでも好きに操れる。
ああ何て世の中は楽勝なのか!)

恵美押勝の名を賜る

即位の後、淳仁天皇は藤原仲麻呂を前におっしゃいます。

「藤原仲麻呂は、朝夕朝廷への勤務に励み、その勤め方は真心があって私心が無い。反逆の徒・橘奈良麻呂のたくらみを事前に防いだのも、仲麻呂の功績である。そもそも藤原氏は、近江の帝・天智帝にお仕えした鎌足にはじまり、代々皇室を助け支えてきた。仲麻呂はその末につらなって、恥ずかしくない者である。広く恵みをほどこす美徳も、代々の藤原氏にも勝るといえよう。よって今後、藤原の姓に「恵美(えみ)」の二文字を添えよ。また暴虐の徒に打ち勝ち、兵乱を押し鎮めたゆえに、押勝と名乗るがよい」

「恵美…押勝……
ははーっ!
この仲間呂、恵美押勝の名をいただき、
ますます朝家に仕えたてまつりまする」

さらに仲麻呂は銀貨を作る権利と出挙(すいこ)…利子をつけて土地などを貸し出す権利を授けられます。

こうして権力を一手ににぎった仲麻呂は、祖父不比等の政策を受け継ぎ、養老律令を施行。

唐風政策

また朝廷の機関名を唐風にあらため、唐風政策を推し進めます。太政官(だいじょうかん)は乾政官(けんせいかん)、紫微中台(しびちゅうだい)は坤宮官(こんぐうかん)、太政大臣は太師(たいし)、左大臣は太傅(たいふ)、右大臣は太保(たいほ)、大納言は御史大夫…という具合に。

しかしこうも名前が変わると、さぞかし現場は混乱したでしょうね。

「おい、今日は左大臣さまが視察にいらっしゃるぞ」
「左大臣さまじゃないだろ。太傅(たいふ)さまって言え。怒られるぞ」
「ええ調子狂っちゃうな」

などと言って…

藤原仲麻呂はもともと中国古典の知識が深く、官職を中国風に改めるにとどまらず数々の唐風の政策を行っています。底に流れるのは儒教の精神です。

四字年号(「天平宝字」など)の採用、「民の苦しみを問う」ことを目的とした門民苦使の設置、成年男子たる「正丁」の年齢を上げることにより税を低めたり。

今日、藤原仲麻呂というと悪人のイメージがありますが、民衆にとってはよろこばしい政策もやっているのです。

唐の情勢

さてこの頃、遣渤海使・小野田守(おののたもり)を通じて、唐の情勢が平城京に伝えられます。

「報告いたします。節度使の安禄山という者、范陽にて唐王朝に反旗をひるがえしました。ほどなく反乱軍は洛陽を落とし、ついで長安に迫り、玄宗皇帝は長安手前の潼関に将軍哥舒翰を派遣されましたが、潼関をも破られ、反乱軍は首都長安になだれこみました」

「して、玄宗皇帝陛下は!」

「蜀の地に難を逃れられ、反乱軍追討のために
渤海に援軍を要請されましたが、さらに節度使の史思明が蜂起。
油断を許さぬ状況です」

「ううむ。何たることだ。安禄山なる男が
日本へ攻めてくることにでもなれば一大事。
すぐに大宰府に使いを送れ」

バカラ、バカラ、バカラ、バカラ

ここは大宰府。

大宰府政庁跡
大宰府政庁跡

大宰府政庁跡
大宰府政庁跡

時の大宰帥(だざいのそち 長官)は船王(ふねのおう)。そして太宰第弐(だざいのだいに 次官)は、吉備真備が勤めていました。すぐさま大宰府の役人を招集し、吉備真備が皆に告げます。

「聞けば安禄山は凶暴で、狡猾な野蛮人という。しかし動揺することはない。天命にそむいた反逆は必ず失敗するであろう。とはいえ、油断は禁物である。いつ安禄山軍が海をわたってきても対応できるよう、準備を怠らぬように」

急遽、博多の大津・壱岐・対馬に船団を置き、不測の事態に備えます。国家の一大事。しかし真備にはもっと個人的な思いもありました。

かつて遣唐使として共に長安にわたった阿倍仲麻呂。
共にまだ若く、真備は22歳。仲麻呂は17歳でした。

吉備真備は一足先に日本へ戻ってきましたが、
まだ阿倍仲麻呂は長安で玄宗皇帝に仕えているはずでした。

「仲麻呂。死ぬなよ…」

などと、真備はひょっとしたら、つぶやいたかもしれません。

光明皇太后の崩御

さて藤原仲麻呂は右大臣にあたる太保に就任し、息子たちや親戚を次々と重要な役職につけて権力を拡大していきました。

しかし760年、光明皇太后が崩御すると仲麻呂の立場はとたんに弱くなります。仲麻呂にとって光明皇太后は叔母にあたり、仲麻呂は強力な後ろ盾を失ったわけです。

光明皇太后崩御、後ろ盾を失う藤原仲麻呂
【光明皇太后崩御、後ろ盾を失う藤原仲麻呂】

(ひそひそ…仲麻呂殿も、もうダメなんじゃないですかねえ)
(そりゃあそうですよ。何しろ今までは、皇太后さまの権威が
あってこそですからねえ)

道鏡の台頭

一方、淳仁天皇と孝謙上皇は日に日に対立を深めていきます。その最大の火元となったのが僧・道鏡です。

762年、孝謙上皇は近江保良宮(北京)にて病に臥せっていました。

「ごほごほ…私ももうダメかしら」
「上皇さま、道鏡殿をお連れ致しました」

道鏡。物部氏の一族の弓削氏出身の僧です。法相宗の高僧、義淵(ぎえん)の弟子で、また東大寺を開いた良弁(ろうべん)からサンスクリット語を学びました。葛城山中で修業をし、秘法を会得したと言われています。

「私が来たからにはもう安心です。加持祈祷の力で、
上皇さまの病を、はじきとばして御覧に入れます。でやっ。たあーっ」

道鏡が祈祷を捧げると、孝謙上皇は体がすーと軽くなり、
熱がたちまち引いていくのを感じました

(ああ…生き返るようだわ)

こうして孝謙上皇の命を救った道鏡は、以後、
孝謙上皇の寵愛を受けることになりました。
孝謙上皇は何をするにも道鏡に相談します。

見かねた淳仁天皇は、孝謙上皇におっしゃいます。

「上皇さま、あまり道鏡を重く用いるのは考え物です」
「何を言いますか。道鏡は命の恩人ですよ」
「だからといって…度を超したご寵愛は問題があると申し上げているのです」
「黙りなさい。私のどこが、度を超していますかっ」
「……」

こうして、孝謙上皇と淳仁天皇との対立は深まっていきます。孝謙天皇には道鏡が結びつき、淳仁天皇には藤原仲麻呂が結びつき、両者の対立は日に日に深まっていきます。

孝謙上皇と淳仁天皇の対立
【孝謙上皇と淳仁天皇の対立】

先手を打った上皇方

孝謙上皇はしだいに淳仁天皇の権限を抑え込むようになり、また藤原仲麻呂の側近たちを次々と左遷していきます。

(上皇さまは道鏡にそそのかされて、おかしくなってしまった。
ワシだけでなく、ミカドまでないがしろにして…
もう、やるしか無い…)

仲麻呂は新羅討伐のために準備していた兵力を都に集めます。軍事力をもって一気に孝謙上皇と道鏡を屈服させてしまおうという考えでした。

しかし孝謙上皇はいち早く危機を察知。側近の山村王(やまむらおう)を淳仁天皇のもとに差し向け、玉璽と駅鈴(えきれい)をうばいます。

駅鈴は各国の関所を自由に行き来できるしるしの鈴で、皇室の権限のシンボルでした。

さらに孝謙上皇は仲麻呂の権限を奪い財産を没収し、「藤原」の姓もはく奪してしまいました。また仲麻呂が逃げ出せないように各国の関所を封鎖してしまいます。

「もはや、どうにもならん。息子を頼ろう」

仲麻呂は一族を引き連れて奈良を出発します。宇治を経て息子のいる美濃を目指しました。

藤原仲麻呂、奈良から美濃をめざす
【藤原仲麻呂、奈良から美濃をめざす】

作戦参謀 吉備真備

対する孝謙上皇は、吉備真備を作戦参謀として招きます。

吉備真備。孝謙上皇がまだ安倍内親王と言われていた20歳の頃、教育係として『漢書』や『礼記』を教えてくれた、あの真備です。

橘諸兄のもとで重用されましたが諸兄が失脚した後は不遇でした。筑前守、ついで肥前守に左遷され、14年間を九州ですごし、つい先日帰京したところでした。

「おお真備…」

「上皇さま、お久しぶりでございます。
上皇さまにはお変わりなく」

「いいえ真備。変わらないはずがありましょうか。
30年…。歳を取りました。あなたも私も。
…しかし今は昔を懐かしんでいる暇はありません。
真備、仲麻呂はどう動くと思いますか?」

「上皇さま、兵法とは相手の立場になって考えることです。
私が仲麻呂殿なら息子たちと合流するため美濃へ向かいます。
そして近江から美濃へ向かう途中には…」

「瀬田橋ですか!」

かつて壬申の乱の最後の決戦が行なわれた瀬田の唐橋。吉備真備の指示のもと、上皇軍は瀬田の唐橋に押し寄せ、橋を燃やしてしまいます。遅れてたどりついた仲麻呂方は焼け落ちた瀬田の唐橋を見てがっくりと肩を落とします。

上皇軍、瀬田橋を焼き落とす
【上皇軍、瀬田橋を焼き落とす】

藤原仲麻呂の最期

「仲麻呂さま、これでは瀬田川を渡れません」
「くううう!読まれておったか。かくなる上は」

仲麻呂は今度は越前にいる息子のもとを目指そうと、琵琶湖の西側へ迂回。琵琶湖沿いに北上していきます。

藤原仲麻呂、琵琶湖西岸を北上
【藤原仲麻呂、琵琶湖西岸を北上】

しかし近江と越前の境・愛発関(あらちのせき)はすでに上皇方によって封鎖されていました。

上皇軍、愛発関を封鎖
【上皇軍、愛発関を封鎖】

行場を失った仲麻呂。再度、琵琶湖沿いに南下します。

そこへ上皇軍が攻め寄せてきます。

ワァー、ワァー

「…もはやこれまで」仲麻呂は琵琶湖のほとり三尾埼(みおのさき)で捕えられ、斬られました。

三尾埼にて討たれる
【藤原仲麻呂、三尾埼にて討たれる】

一代の栄華を極めた藤原仲麻呂の、あっけない最期でした。

乱の後、淳仁天皇は乱に加担したといって廃位させられ、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となります。

日本の歴史の中で重祚した天皇は飛鳥時代の皇極天皇(=斉明天皇)と、この孝謙天皇(=称徳天皇)の二人だけです。

つづき 宇佐八幡宮信託事件

解説:左大臣光永

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