菅原道真(一)文章博士
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こんにちは。左大臣光永です。週末のひととき、いかがお過ごしでしょうか?
本日から、菅原道真について、四回にわたってお話していきます。
菅原道真といえば、学問の神様。無実の罪で大宰府に流された…東風吹けば匂いおこせよ梅の花の歌などが有名ですが、
道真は政治家であり、文章家であり、歌人であり、そして死後天神さまとして祭り上げられていった御霊信仰の対象であり、さまざまな切り口のある興味深い人物です。
北野天満宮 三光門
本日は第一回「文章博士」です。
道真誕生
菅原道真は承和12年(845)、父菅原是善(すがわらの これよし)の三男として生まれます。もっとも上の二人の兄は記録になく、早くに亡くなったものと思われます。
この承和という時代は、承和9年(842)承和の変という政変が起こりました。仁明天皇の皇太子恒貞親王が失脚。かわって藤原良房の血縁にあたる道康親王が文徳天皇として即位。これによって一人藤原良房だけがトクをしたことになり、藤原氏が勢力をのばしていった時代です。
土師氏
しかしまずは時代をさかのぼって、菅原氏のルーツを見ていきましょう。
菅原道真の菅原氏はもと土師(はじ)氏といいました。天照大神(あまてらすおおみかみ)の息子・天穂日命(あめのほひのみこと)を祖とする出雲の人・野見宿禰(のみのすくね)がルーツと言われています。
野見宿禰は『日本書紀』11代垂仁天皇記に、垂仁天皇の側近として出てきます。
奈良県 宝来山古墳(垂仁天皇陵)
古代の天皇か亡くなると、その墓(陵)に、ご家来衆を生き埋めにしたといいます。
しかし垂仁天皇は、そんな残酷なと、心痛めていらっしゃいました。それで、皇后日葉酢媛(ひばすひめ)が亡くなった時、側近である野見宿禰が提案します。
生きた人間を埋めることはありません。土を焼いた陶器の人形を作って、それを埋めればいいのです。
おお!いいなそれと天皇は野見宿禰のアイデアを採用しました。
埴輪のはじまりです。
そしてこの時の功績により、野見宿禰は「土師連(はじのむらじ)」の姓を賜り、以後、代々朝廷の葬儀に関わる仕事や古墳の造営を行うようになったと『日本書紀』垂仁天皇記にあります。
菅原氏への改名
時は降り、奈良時代末期の天応元年(781)4月。50代桓武天皇が即位します。桓武即位の2ヶ月後の6月に、土師氏の家長である土師古人(はじの ふるひと)は桓武天皇に請願します。
「土師という姓は墓や埋葬を思わせるので、縁起が悪いです。出身地(大和国添下郡菅原)の地名から取って、菅原氏と変えてよろしいですか」
奈良県菅原 菅原天満宮
奈良県菅原 菅原天満宮
奈良県菅原 天神堀
桓武天皇はこの申し出を容れます。かくして土師古人あらため菅原古人となりました。この菅原古人が菅原道真の曽祖父です。一方、奈良の秋篠(大和国添下郡秋篠)に拠点を置く土師氏も改名して、秋篠氏となりました。
姓を変えるといってもそんなに簡単に許されるものではないですが、桓武天皇は許しました。それは、桓武天皇の母・高野新笠(たかののにいがさ)の母は土師真妹(はじのまいも)といって、土師氏の女だったため、桓武天皇は土師氏につながりがあったためです。
そして桓武天皇の祖母・土師真妹の系統の土師氏も、居住地にちなんで大枝(おおえ)氏と改名し、後に大江(おおえ)氏と改名します。学者の家系として知られる菅原氏と大江氏は、ともに土師氏をルーツに持つ、根っこが同じことになります。
道真の母
話を菅原道真誕生の時点に戻します。
道真の母は伴氏の出身です。伴氏はもとは大伴氏…すなわち万葉歌人として知られる大伴家持と同じ大伴氏ですが、淳和天皇が即位した時、天皇のお名前を大伴皇子といったので、それにはばかって伴氏と改名しました。
伴氏社(北野天満宮参道)
伴氏廟(北野天満宮西隣)
もっとも道真の母の詳しい経歴は何もわかりません。
貞観元年(859)道真が15歳で元服した時、母が詠んだ歌が残っています。
ひさかたの 月の桂も 折るばかり
家の風をも 吹かせてしがな
(『拾遺和歌集』雑上)
月の桂の木を折るほどに、わが菅家の風を吹かせてほしい。
菅原道真の母 銅像(兵庫県須磨 綱敷天満宮)
「桂を折る」とは、中国で科挙に合格した時、桂の林の枝を折ったようなものだと例えられ、つまり、試験に受かることです。
道真母の歌はしかも桂を地上の桂ではなく、月にうわっているの桂として、月の桂も折るほどに、菅家の風を高らかに吹かせてとおくれと、息子の出世に大いに期待をかけているわけです。
11歳の詩
道真自身も母の血を引いて、たいへんな詩人でした。11歳で詠んだ詩が残っています。道真の家集『菅家文章(かんけぶんそう)』の冒頭の詩です。
月耀如晴雪
梅花似照星
可憐金鏡転
庭上玉房馨月の耀きは晴れたる雪の如し
梅花は照る星に似たり
憐むべし 金鏡の転るを
庭上に、玉房(ぎょくぼう)の馨(かほ)れるを
■玉房 ここでは梅の花。
月の輝きは晴れた夜の雪のようだ。
梅の花は照る星に似ている。
憐れむべきは、金の鏡のような月が大空をめぐり、
庭に梅の花の香っていることだ。
ロマンあふれる、美しい感じです。いかにも早熟な文学青年が書いたような。現実の風景ではなく、詩的に洗練された、美しい、空想的な世界を描き出しています。
そしてこの詩的で空想的な雰囲気は、道真の生き方においても、詩においても、生涯にわたって、覆いかぶさるものでした。
キャリアを積む
貞観12年(870)役人としての昇進試験(方略式)にパスして以来、昇進を重ねていきます。貞観13年(871)少内記。これは天皇の詔勅の草稿を作る役職です。翌貞観14年(872)存問渤海客使(そんもんぼっかいきゃくし)。渤海からの来た使者を接待する役職です。
貞観16年(874)従五位下に叙せられ、民部少輔(みんぶしょうふ)に任じられます。民部省は税制の管理運用を行う部署。「少輔」ですからその二等官ということです。
元慶元年(877)正月、33歳で式部少輔。式部省は役人の人事などを行う役所です。少輔はそのニ等官です。
文章博士となる
そして同年10月、文章博士(もんじょうはかせ)に任じられます。祖父清公、父是善もたどった出世コースを、道真も踏んだわけです。道真としては、晴れ晴れした未来が開けて感じられたことでしょう。
■文章博士 大学寮で文章道(もんじょうどう。歴史と詩文)の指導にあたった者。
しかし父是善は、道真に言いました。
「たしかに文章博士はほまれ高い役職である。俸禄も高い。だからこそ人の妬みも買いやすいのだ。しかもお前には頼りにできる兄弟もいない。父はそれが心痛い」
父の死と菅家廊下
道真が文章博士になった3年後の元慶4年(880)父是善は69歳で亡くなります。菅原是善はおよそ政治向きの人柄でなく、風流を愛し、学問を好む人柄でした。菅原家の邸宅の一部に私的な学問所を開き、教えていました。これを菅家廊下(かんけろうか)といいます。
菅大臣神社(菅家邸址)
菅大臣神社(菅家邸址)
菅原家の邸宅は京都の五条と四条の間、現在の下京区菅大臣町、菅大臣(かんだいじん)神社のあたりと言われていますが、その西南の渡り廊下で、私塾を開きました。ために「菅家廊下」というわけです。
菅家邸址碑
父の死後は、道真が「菅家廊下」を主催し、後学を育てていくこととなります。
周囲の妬み
それにしても文章博士の立場は大変でした。
「人の妬みを買いやすい」父がそう言った通り、文章博士・菅原道真は周囲から妬まれまくりでした。
大納言藤原冬緒を誹謗する詩が発表された時は、その見事な出来栄えから「道真のしわざに違いない」と言われました。
また、渤海からの使者を接待して詩を詠んだ時は、「詩の出来が悪い」といって非難されました。出来が良くても悪くても非難されるのでした。
「もうやっていられない。いっそ出家でもしようか」
そんな弱音を吐いたりもする、道真でした。
(こんな時に、業平殿がいてくだされば…)
その在原業平は、道真の父が死んだと同じ元慶4年(880)56歳で没していました。在原業平は菅原道真より20歳年上ですが、二人は交流があり、長岡京でしばしば管弦の遊びにふけったり、風流を分かち合う間柄だったようです。
次回「讃岐守時代」に続きます。
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