藤原道長の栄華

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藤原道長(966-1027)は平安時代中期の政治家で、藤原氏の
全盛期を築いたことで有名ですが、はじめは
特に権力を手にしてやろうといった野心に燃えたことでも
なかったようです。

966年、道長は藤原北家の摂政・関白・
太政大臣 藤原兼家の五男として生まれます。
母は左京大夫藤原中正(なかまさ)の女(時姫)。

順調に出世を重ね26歳で権大納言(ごんだいなごん)
に至ります。

しかし道長の兄には長男道隆、次男道綱、三男道兼がおり、
道長は兄たちに比べればそれほど
目だった存在ではありませんでした。

兼家の息子たち
兼家の息子たち

摂政への道のり

ところが、995年長男関白道隆が疫病で没します。
かわって三男道兼が関白を継ぎますが、
わずか数日で病にかかって亡くなります。
(そのため道兼は「七日関白」と呼ばれます)

次男の道綱・四男の道義は正妻の腹ではないので出世が遅れ、
結果として残った五男の道長が995年
甥の伊周(これちか)と争った結果、
内覧の宣旨を蒙ることとなります。

兼家の息子たち
兼家の息子たち

「内覧」とは天皇に奏上する文書を前もって
拝見する役職のことで、摂政・関白に順ずる地位でした。

ついで道長は右大臣を経て藤原氏の氏長者となり、
ついで左大臣、1016年姉で天皇の生母・詮子(せんし)の
推挙を受け摂政に至ります。

娘たちを后に

その間、道長は三人の娘たちを次々と天皇の后とします。

995年、長女彰子を一条天皇の後宮に中宮として納れます。

すでに一条天皇には道長の兄道隆の娘である
定子が中宮となっていましたが、
道長は定子を皇后と号し、わが娘彰子を強引に中宮としました。

一帝二后
一帝二后"

ここに一帝二后…一人の天皇に后が二人いることの
先例が作られます。

一条天皇の時代ははなやかな宮廷文化が栄えます。
紫式部や清少納言、和泉式部が活躍したのも一条天皇の時代です。

1011年、一条天皇が譲位し
三条天皇が即位すると、道長は翌年の12年には
次女の妍子(けんし)を三条天皇の中宮とします。

三条天皇も一条天皇と同じく、すでに中宮がいたので
やはり一帝二后状態となります。

道長の娘たち
道長の娘たち

三条天皇は百人一首にも歌が採られている不遇な天皇です。
その治世の間、道長の専制や内裏が火事になるなど
不幸が重なりました。

その上眼病をわずらい、道長はそれを理由に
三条天皇に退位を迫ります。

1016年、三条天皇は道長のすすめを受け入れて退位。
かわって道長の長女彰子が生んだ敦成親王(あつひらしんのう)が
後一条天皇として即位し、道長は天皇の外祖父として
摂政に任じられます。

翌1017年、道長は摂政の位を長男の頼通(よりみち)に譲り
従一位太政大臣に至り、表向きは引退しましたが
死ぬまで権力を振るい続けました。

1018年、道長は三女の威子(いし、たけこ)を後一条天皇の中宮とします。
今や道長は長女彰子、次女妍子、三女威子、
三人ともに天皇の后にしたわけです。

ここに藤原氏の権力はゆるぎないものとなりました。

望月の歌

長女、次女についで三女の威子を中宮の位につけ、
得意の絶頂にある藤原道長。

その夜は三女の威子が中宮となった祝いの宴が開かれていました。
大臣公卿は、こぞって道長をたたえます。

宴もたけなわになった頃、
道長はかたわらに立つ公卿
藤原実資(ふじわらのさねすけ)に言いました。

「和歌を詠もうと思うのですが、返歌をお願いできますか」
「ほう。私でよければ」

「これは即興の歌で、前もって作ってきたものではないのですが…」

道長は照れながら、静かに詠み上げました。

この世をばわが世とぞ思ふ望月の
欠けたることも無しと思へば

この世は俺の世だと思う。
満月のように全く欠けたところが無い。完璧だ。

聞かされたほうは、さすがに呆れます。

(な…なんたるうぬぼれ!)

しかしここまで得意の歌に、どう返せばいいのか…。

「いや、さすが道長殿。こんな素晴らしい歌に
私ごときが返歌など、勿体無い。
皆で唱和いたしましょう」

「そうですか。ははは。照れますなあ」

こうして公卿たちこぞって望月の歌を唱和しました。
藤原実資の日記「少右記(しょうゆうき)」にある有名な逸話です。

晩年

1017年摂政になった翌年に道長は長男の頼通にその位を譲り、
隠居します。

わが世の栄華を極めた道長でしたが、
その肉体は丈夫ではなく、この頃になると来世のことが
気になりだしたようです。

1019年 道長は出家して行観(のち行覚)と名乗り、
絢爛豪華な法成寺(ほうじょうじ)を建立し
仏教三昧の暮らしに入ります。
道長の日記『御堂関白記』の「御堂」とはこの法成寺のことです。

しかし、日に日にすすむ糖尿病はどうにもなりませんでした。
1027年、道長はその生涯を閉じます。享年62。

政治・国防への無関心

政治家としての道長には大きな働きはみられません。
道長の一番の感心はいかに藤原氏の権力を
不動のものにするかという一点に注がれており、
政治や国防には無関心でした。

「世の中をこうしたい」といった野心や展望も見られません。

道長の時代には大きな政変や戦争も無く、
わりと社会が安定していましたが、
大きな事件として日本が外敵に侵略された「刀伊の入寇」があります。

1019年、謎の船団が壱岐・対馬を襲い、
島民を虐殺した「刀伊の入寇」と呼ばれる事件です。

鎌倉時代の「元寇」にさきがけ、日本が外敵から侵略された大事件ですが、
道長にはそのような危機意識はなかったようです。

文化の庇護者としての道長

道長は政治には無関心な一方、文学には
大きな関心を示しました。

道長自身、すぐれた歌人であり『後拾遺集』以下の
勅撰和歌集に多くの歌が採られています。

また『御堂関白記』とよばれる非常に長く詳しい日記を
遺しており、当時の貴族社会を知る上での
大きな資料になっています。
(読み物としてはぜんぜん面白くないですが…)

紫式部を見出し、長女中宮彰子の教育係とした
ことでも有名ですね。

道長自身も『源氏物語』の読者であったともいわれています。
そんなこともあってか道長と紫式部
が愛人関係だったという
説もありますが、信憑性は薄いです。

摂関政治の歴史

道長が全盛期を築いた「摂関政治」の歴史をひもとくと、
858年、藤原良房が清和天皇の摂政となり、
皇族ではない臣下としてのはじめての摂政となります。

ついで良房の養子基経(もとつね)が光孝天皇の
関白となり、これが史上初の関白です。

彼ら良房・基経が摂関政治のさきがけとなります。

以後、藤原氏は他氏廃絶…つまり競争相手を蹴落とすことと、
天皇家と姻戚関係を結ぶことでその権力を強めていきました。

代々摂政・関白の地位を独占し
11世紀前半の道長に至って全盛期を迎えます。

しかし、1068年藤原北家を祖父に持たない後三条天皇が即位し、
ついで即位した白川天皇が白川上皇となり
院政をはじめると、摂関政治は衰えていきます。

≫次の章「清少納言と紫式部」

解説:左大臣光永

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