琵琶湖疏水の開削(ニ)

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こんにちは。左大臣光永です。

先日、京都大学の前を通ったら、えらい人だかりで、何だ?と思ったら、入学試験でした。それはいいんですが、京大の門の前に、ヘルメットかぶって、プラカード持った学生数人が、拡声器で「君たちの自由は戦わずに手に入るものではない」とか演説してて、警察官が「通行の邪魔だからどいて」と言うのを、また別の学生が「そういう警官こそ邪魔じゃないですか!」と口論している。…何と戦ってるのかわかりませんが…若いっていいなァと思いました。

さて先日から二日間にわたって「琵琶湖疏水の開削」についてお話しています。琵琶湖疏水は明治時代初期、琵琶湖の水を京都に引くために建設されました。滋賀県大津から長柄山のトンネルをくぐって、京都の蹴上船泊から鴨川へ。さらに鴨川東岸の延長水路により伏見にまで到りました。

この途方もない大事業は、どんなふうに行われたのか。工事にあたった人々はどんな思いだったのか?本日は後半です。

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

疏水概略図
疏水概略図

崩落事故

4年10ケ月にわたる琵琶湖疏水の工事の間には、ヒヤリとする局面もありました。

明治21年(1888)10月5日夜半、第一隧道東口付近の天井が崩れ落ち、65名の作業員が、真っ暗闇の中に閉じ込められてしまいました。

すぐさま仮設電話で疏水事務所に報告が行き、田辺朔郎が駆けつけ、救助作業に入ります。しかし下手に作業すれば二次崩落が起きる。注意深く、人一人が進めるほどの穴を掘り進んでいきました。

翌6日、奇跡的に全員が救助されますが、現場も、世間も、肝を冷やしたことでした。

さて65名が救出された後、点呼を取ったら3人の行方がわからない。えらいことだ。3人残っていた。大騒ぎになりますが…実はこの3人は無事に救い出された嬉しさに、その足で近くの遊郭に行って遊んでいたのでした。

生と死と、悲しみと喜びとは隣り合わせなんだナと実感させてくれるエピソードですね。

インクライン

疏水の工事は第一隧道のほかにも全体を五つの工区に分けて同時進行で進められました。しかし山科から京都盆地にどうやって水をひっぱるかが問題でした。

蹴上船泊から南禅寺船泊との間には高度差が36メートルもあるため、そのままでは船の行き来ができませんでした。

そこで、船を乗り降りすることなく、船ごと台車に載せて、動力によってレール上を上り下りする仕組みが作られました。これが蹴上インクライン(傾斜鉄道)です。

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蹴上インクライン
蹴上インクライン

蹴上船泊
蹴上船泊から…

蹴上インクラインを下って
蹴上インクラインを下って

南禅寺船泊へ
南禅寺船泊へ

こうして南禅寺船泊まで下った船は、水路を通って鴨川の東岸に至るわけです。

疏水分線

一方、灌漑や防火用の水路は別に引っ張ります。疏水分線です。蹴上船泊から分水して、第四隧道・第五隧道・第六隧道を通り、如意ヶ岳と吉田山の間の平地を北上し、高野川を渡り下鴨を突っ切り賀茂川を渡って小川から堀川に至ります。

疏水分線
疏水分線

疏水分線
疏水分線

そしてこの疏水分線を通すために、南禅寺境内にローマの水道橋を模して巨大な「水路閣」が築かれました。

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

南禅寺水路閣
南禅寺水路閣

水路閣を抜けた後は、第四隧道・第五隧道・第六隧道をくぐります。

疏水分線、第四隧道へ
疏水分線、第四隧道へ

その先の若王子~銀閣寺道に至る区画は、哲学者西田幾多郎先生が学生と議論しながら歩いた「哲学の道」として有名です。

哲学の道
哲学の道

竣工式典

明治23年(1890)3月、琵琶湖疏水は大津から鴨川東岸に至る本線と、蹴上船泊から小川に至る分線のすべての工事が完了しました。

4月9日午前。明治天皇を大津にお迎えして、鹿関(かせぎ)に築かれた疏水閘門(そすいこうもん)の上で田辺朔郎が琵琶湖疏水の概要を説明します。その後、疏水ゲートを開いて正式な通水式が行われました。

鹿関 疏水閘門
鹿関 疏水閘門

鹿関 疏水閘門
鹿関 疏水閘門

午後。明治天皇が馬車で京都に戻られると、琵琶湖疏水の京都側の最終地点に近い夷川船泊の中島にて竣工式典が行われました。101発の花火が上がりました。

夷川船泊の中島
夷川船泊の中島

伏見までの付帯工事

工期4年10カ月。距離20キロ以上。未曾有の大工事はこうして終わりました。しかし琵琶湖疏水はまだ完全ではありませんでした。

明治27年(1894年)まで付帯工事として鴨川冷泉(れいぜん)放出口から伏見区堀詰町(ほりづめちょう)までの延長水路が完成。これは鴨川の左岸に水路(鴨川運河)を設けて、伏見まで通しました。

鴨川運河
鴨川運河

鴨川冷泉放出口
鴨川冷泉放出口

これにより琵琶湖と淀川が結ばれます。北陸から近江を経て京・大阪に到る水運が整えられたのです。

第二疏水

疏水の開通後、京都は勢いを取り戻していきます。産業もさかんになり、年々、人口も増えていきました。明治31年には35万人と記録されています。

しかし増えすぎた人口を、疏水からの水だけでは賄えなくなってきました。

そこで、新しい疏水を建造することが提案されました。しかし予算が無い。時の京都市長西郷菊次郎が駆け回った挙句、フランスからの融資を取り付けることに成功しました。

疏水概略図
疏水概略図

第二疏水は第一疏水のやや北を並行して通しました。工事は明治42年11月に始まり明治45年4月に終わります。第二疏水が第一疏水と決定的に違うのは、その全域が地下に埋まっていることです。三保ケ崎の取入口と蹴上の合流点以外、ほとんど外から見ることはできません。

入り口である大津の三保ケ崎取入口と、出口である蹴上船泊の合流点でのみ、わずかに第二疏水の存在が知れます。

大津 第二疏水 三保ケ崎取入口
大津 第二疏水 三保ケ崎取入口

大津 第二疏水 三保ケ崎取入口
大津 第二疏水 三保ケ崎取入口

蹴上船泊合流点
蹴上船泊合流点

しかし第二疏水はふだん存在を実感されることは少ないながら、第一疏水の二倍の水量を、毎日琵琶湖から京都に現在ももたらしています。

水力発電の利用

ところで第二疏水の工事では第一疏水の時と決定的に違うことがありました。

電気が使えたことです。

第一疏水完成した翌年の明治24年、アメリカ・コロラド州アスペンの水力発電所を参考に、日本発の水力発電所が蹴上に完成し、同年11月から送電されていました。

蹴上発電所
蹴上発電所

この蹴上発電所から送られる電気で、坑内の照明や排水ポンプを動かすことができました。これにより第二疏水の工事は第一疏水の工事よりもずっとやりやすくなりました。

疏水の盛衰

疏水の利用者は最盛期は13万人を数えました。しかし鉄道の発達にともない利用者が減り、昭和23年(1948年)に廃止されました。

蹴上インクラインのレールも撤去されました。

こうして輸送手段としての琵琶湖疏水の歴史は幕をおろしました。しかし現在も琵琶湖疏水の水は、生活用水に、発電に、防火に、工業用水に、京都の生活と産業を支え続けています。

疏水分線
疏水分線(蹴上から南禅寺へ)

疏水分線
疏水分線(蹴上から南禅寺へ)

現在の蹴上インクライン周辺

昭和52年(1977年)蹴上インクラインのレールが産業遺産として復元されました。レールの復元に伴い、台車とそれに乗った木造船も復元されています。貨物まで忠実に再現されているのが、心憎いです。

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

復元された蹴上インクライン
復元された蹴上インクライン

復元された蹴上インクライン 台車と木造船
復元された蹴上インクライン 台車と木造船

復元された蹴上インクライン 台車と木造船
復元された蹴上インクライン 台車と木造船

インクラインを登った先の蹴上疏水公園には、田辺朔郎博士の像が立っています。若く、理想に燃えた感じで京都市内を見下ろしています。

田辺朔郎像
田辺朔郎像

田辺朔郎像
田辺朔郎像

平安神宮の大鳥居が赤く見えるのが気分高まります。

蹴上疏水公園からの眺め
蹴上疏水公園からの眺め

田辺朔郎博士像のはす向かいには、琵琶湖疏水工事殉難者碑(びわこそすいこうじじゅんなんしゃのひ)があります。

琵琶湖疏水工事殉難者碑
琵琶湖疏水工事殉難者碑

疎水工事に伴う殉難者17名の魂を慰めるため、田辺朔郎が私費で建てた石碑です。銘は、

「一身殉事萬戸霑恩(一身 事に殉じ/萬戸 恩に霑(うる)ほふ)」

あなたたちが一身を投げ打ってこの事業に殉じてくれたからこそ、今、多くの人が潤っています、あなたたちの死は無駄ではありません、といった意味でしょう。

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解説:左大臣光永

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