琵琶湖疏水の開削(一)

こんにちは。左大臣光永です。

寺町通の天丼屋で昼飯食べてきました。目の前で、見事な手さばきでサッ、サッと具を揚げてくれるのです。無駄のない動きに、ほれぼれしました。私は飲食店ではすぐに本を出して読み出すことが多いんですが、目の前でプロの手さばきが見れるのは、見ないとソンって思います。

さて本日から二日間にわたって「琵琶湖疏水の開削」についてお話します。琵琶湖疏水は明治時代初期、琵琶湖の水を京都に引くために建設されました。滋賀県大津から長柄山のトンネルをくぐって、京都の蹴上船泊から鴨川へ。さらに鴨川東岸の延長水路により伏見にまで到りました。

この途方もない大事業は、どんなふうに行われたのか。工事にあたった人々はどんな思いだったのか?二日間にわたって語ります。

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疏水(京都岡崎)
琵琶湖疏水(京都岡崎)

疏水竣工百周年記念碑(京都岡崎)
疏水竣工百周年記念碑(京都岡崎

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衰退する京都

幕末。

京都は治安が著しく悪化していました。「天誅」と称して幕府要人が斬られるなど、勤王派・佐幕派、いずれも鼻息を荒げ、辻切りが横行していました。

元治元年(1864)7月、昨年の政変で京都を逐われた長州が御所に押し寄せ、御所を警護する薩摩藩・会津藩の藩兵と衝突。御所周辺の各地で戦いが行われました。禁門の変です。

特に蛤御門の戦いは激しく、現在も京都御苑蛤御門に鉄砲の弾の跡が残っています。

現・蛤御門
現・蛤御門

結局、長州は破れて本国に撤退していきますが、この時、御所周辺や河原町御池の長州藩邸から火が出ます。火はまたたく間に燃え広がり、東は鴨川から、西は堀川の手前まで市街地の大部分が焼かれました。

後世「どんどん焼け」「鉄砲焼け」などと言わる大火事です。焼けた家の戸数4万7000戸と記録されています。

火事の後、復興もままならない中で明治維新を迎えます。明治2年。天皇が東京にお遷りになります。公家たちも多くは京都から東京に移ります。御所周辺の公家屋敷はあるいは取り壊され、あるいは荒れ果てるに任せました。

京都は見る間に昔日の華やかさを失っていきます。

最盛期には江戸・大阪とならび40万人の人口を誇りましたが、明治8年の記録によると22万6000人にまで落ち込んでいました。明治はじめの京都は衰弱し切っていたのです。

北垣国道の赴任

明治14年(1881)北垣国道が高知県令から栄転する形で第三代京都知事として京都に赴任してきました。

北垣国道像(夷川船泊)
北垣国道像(夷川船泊)

北垣は但馬藩(兵庫県北部)の出身で、幕末は長州藩に身を寄せ、高杉晋作の奇兵隊にも所属していました。戊辰戦争では会津を攻めて、功績を立てました。

青年時代に志士として駆け回った京都に、知事となって戻ってきた。北垣の胸にはさまざま思いがあったことでしょう。

北垣国道像(夷川船泊)
北垣国道像(夷川船泊)

赴任早々、北垣国道は京都復興事業に着手します。その柱として北垣が掲げたのが、琵琶湖疏水の開削でした。

琵琶湖から京都に水を引く計画は、古くは平清盛・豊臣秀吉の時代からありました。江戸時代もありました。明治に入ってからも何度も嘆願書が出されていました。

平清盛・豊臣秀吉の時代には技術的に不可能でした。しかし時は明治。技術は格段に進んでいます。

安積疏水の視察

北垣は赴任早々、技術団を率いて疏水開削予定地を視察します。同年7月には、完成まぎわの福島県安積疏水を視察し、安積疏水を成功に導いた技師・南一郎平(みなみいちろべい)に会いました。

安積疏水は、猪苗代湖の水を東に幾筋もひっぱってきて、流れの一部を阿武隈川に合流させたものです。

安積疏水によって、それまで不毛の大地だった猪苗代湖東部が豊かな穀倉地帯に変わりました。

「これなら…琵琶湖疏水もいけるのではないか」

翌明治15年(1882)北垣は南一郎平を京都に招きます。南一郎平は疏水の開削予定ルートを視察した上で、「成功間違いなしです」とお墨付きを与えました。

福島安積疏水を成功させた技師・南一郎平直々のお墨付きを得たことは、北垣に勇気を与えました。

しかし、何事も新しいことを嫌うのが京都人の気質。

「今度来た餓鬼、極道(北垣、国道)」などと、名前をもじって嫌味を言われました。しかし北垣の疏水にかける信念はゆるがず、入念に現地調査を進めていきました。

田辺朔郎との出会い

翌明治16年(1883)北垣国道は政府要人との打ち合わせのために上京しました。そこで工部大学校(後の東京帝大工学部)校長・大鳥圭介より、一人の学生を紹介されます。

田辺朔郎像(蹴上疏水公園内)
田辺朔郎像(蹴上疏水公園内)

田辺朔郎。当時20歳。土木専攻。卒業論文で、琵琶湖疏水の計画と設計について書いていました。

北垣は早速田辺朔郎に会ってみると、色白で長身。いかにも都会っ子の風で礼儀正しく物腰柔らかな若者でした。田辺は琵琶湖疏水に並々ならぬ情熱をもっており、最新の土木技術を貪欲に学んでいました。

北垣は田辺をたいへん気に入ります。

「田辺くん、明日の京都のために力を貸しくれ」
「わかりました」

翌明治16年(1883)4月、田辺朔郎を加えた疏水開削チームにより、琵琶湖疏水の設計書と工事仕様書が作成されました。

滋賀・大阪からの反対

しかし実際の工事に行き着くまでに幾重もの困難がありました。琵琶湖から水を引くので、当然滋賀県の許可が必要です。しかし当時の滋賀県令・篭手田安定(こてだ やすさだ)は強く反対しました。

「琵琶湖の水を京都に引っ張る?アホな!そんなん琵琶湖の水位が下がってまうわ。京都ばっかいいで、滋賀にいいこと一つもあらへんやないか」

また大阪は大阪で、

「琵琶湖の水を流し込む?どアホ!淀川の水位が上がって、エライことなるで」

そんなことを言われるのでした。

北垣は滋賀や大阪を説得することはムリと判断。直接政府の説得に当たります。政府高官は琵琶湖疏水計画にしだいに心動かされます。しかし最終的には滋賀県令の許可が必要となります。

滋賀県令篭手田安定はこよなく近江の地を愛しており、滋賀県の利益にならないことをやる気はありませんでした。そこで政府は篭手田を元老院に栄転させた上で東京に移し、疏水計画に理解のある新しい県令を滋賀に送りました。

これでようやく滋賀県令から許可を得ることができました。

計画の修正

また計画そのものも最初の案から修正が必要でした。当初、北垣が考えていた予算案は、衰退しきった京都の財源を念頭にしていたため、少なすぎるものでした。安全性に疑問が持たれました。

また滋賀と大阪からの苦情に対応するための付帯工事も必要でした。結局、当初予定の二倍の予算が必要ということになり、予算案も、工事計画も、大幅に修正していきました。

工事許可が下りる

明治18年(1885)1月29日、北垣国道は内務省に呼び出され、内務卿山県有朋より琵琶湖疏水開削事業の許可証(起工特許書)を下されました。4年間にわたる、根回しと努力のたまものでした。

(ここから全てが始まる。そしてここからが、大変なのだ…)

北垣と側近たちの胸には期待と不安がせめぎ合っていたことでしょう。

チームの結成

明治18年(1885)3月6日、京都府庁内に「疏水事務所」が開設されました。疏水開削事業のプロジェクトチームが、この日結成したのです。

所長は副知事格の尾越蕃輔(おごし ばんすけ)。工事総括責任者に田辺朔郎と島田道生。島田は経験豊富な測量士でしたが、田辺は大学を卒業したばかり。しかも見るからに現場のことなんかわかるの?という育ちの良さそうな風貌なので、危ぶむ声もありました。

しかし北垣国道は田辺朔郎に絶対の信頼を置いてこの壮大なプロジェクトを任せました。また田辺の若すぎるところは、ベテランの島田が補佐してくれるという考えもあったでしょう。

起工式

工事に先駆けた明治18年(1885)6月2日、第一隧道西口の藤尾で、東口の大津で、起工式が持たれます。翌3日、京都でも祇園四条界隈で起工式が行われました。

京都知事北垣国道が若い田辺朔郎に花を持たせるつもりでステージに立たせます。

「えらい若おすなあ」
「あんなんで、できますのん」
「でもちょっとええ男やで」

舞妓さんたちも、そんなこと言ったでしょうか。

田辺は疏水工事に対する思いを堂々と述べて、大いに喝采を浴びました。しかしこれで田辺も北垣も、絶対に後ろに退くことは、できない立場となりました。

第一隧道

工事はまず、大津から長等山(ながらやま)を貫き藤尾(ふじお)に到る、第一隧道から始められます。全長2436メートル。当時のトンネル工事としては最長です。

琵琶湖疏水 概略
琵琶湖疏水 概略

琵琶湖疏水 概略
琵琶湖疏水 概略

そこでシャフトと呼ばれる竪穴を使った工事方法を、日本ではじめて採用します。

トンネルの中間点の山の上から竪穴を掘り、竪穴の底から、両方の出口に向けて、掘り進む。それと同時に両方の出口からも掘り進むとうものです。

シャフト
シャフト

しかしこのシャフトの工事が大変でした。なにしろ日本初のことで、鉱夫たちも経験がありません。岩盤に突き当たるとダイナマイトで破壊しながら進みましたが、あちこちで湧水が吹き出して大変でした。

その度にポンプや釣瓶で水を汲み上げて排水するので、時間と手間がかかります。時には2カ月も工事がストップすることもありました。

明治19年(1886)4月17日、ようやくシャフトが予定している第一隧道の標高に届きました。最深部では湧水の勢いがものすごく、大型ポンプで汲み上げて排水しました。

最深部の真っ暗な闇の中から左右に掘り進むのです。測量技師島田道生の腕が活かされるところでした。西口の藤尾からはこれに先駆ける3月21日より、東口からは少し遅れて9月20日から開削を進めていました。

西口藤尾方面の工事はスムーズに進みました。西口藤尾に近い山の上から第二シャフトを掘ったので、2本のシャフトにより、工事はずいぶんやりやすくなりました。

第一シャフト・第二シャフト
第一シャフト・第二シャフト

翌明治20年(1887)7月、第一シャフト底部から掘り進んできた鉱夫たちと、藤尾口から掘り進んできた鉱夫たちの耳に、それぞれ岩盤の向こうからダイナマイトやつるはしの音が響くようになります。もう少しだと期待が高まります。

7月9日、藤尾口側から岩盤をダイナマイトで破壊すると、ぼっかりと穴が空き、向こう側とつながりました。

第一隧道西側の最後の岩盤が取り除かれ、東西に分かれていた鉱夫たちは顔をあわせることとなりました。

「やった!やった!」

鉱夫たちは大喜びで駆け寄せ、涙を流して抱き合いました。田辺朔郎は、後年回想録に書いています。疏水は必ずできる。私が確信したのは、この時であったと…。

つづき「琵琶湖疏水の開削(ニ)

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解説:左大臣光永