川中島の合戦(四)鞭声粛々

こんにちは。左大臣光永です。

サンシャイン60に「7days=Sunday」という服店があるんですけど、7days=Sunday…毎日日曜日と言いたいんでしょうけども、だったら「7days=Sundays」にしないと、7日間が一日の日曜日に押し込められてしまうので、人生が七分の一になって、かえってソンだと、変な感じがしました。

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本日は「川中島合戦」第四回「鞭声粛々」です。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Kawanakajima4.mp3

第一回、第二回、第三回もあわせてお聴きください。

第一回「上杉謙信と武田信玄」
http://history.kaisetsuvoice.com/kawanakajima.html

第二回「妻女山」
http://history.kaisetsuvoice.com/Kawanakajima2.html

第三回「啄木鳥戦法」
http://history.kaisetsuvoice.com/Kawanakajima3.html

鞭声粛々夜河を渡る

午後11時。上杉軍はひっそりと妻女山を下り、雨宮渡(あめのみやのわたし)から千曲川を越えます。一糸乱れぬ、物音ひとつ立てない行軍でした。

誰も声を立てないように口に木端を咥えさせ、馬の舌を縛り、馬の鼻を布でしばるという徹底ぶりでした。

鞭声粛々夜河を渡る

上杉軍、妻女山を下り雨宮渡を渡る
上杉軍、妻女山を下り雨宮渡を渡る

雨宮の渡
雨宮の渡

江戸時代の儒学者頼山陽の「不知庵機山を撃つの図に題す(川中島)」に歌われているのは、この場面です。

一方、高坂弾正ら武田方は午前0時頃食事を取り、海津城を出て、妻女山裏に向かいます。信玄率いる本隊も広瀬の渡から千曲川を渡り、八幡原に向かいます。

激戦 川中島

九月十日早朝。

別働隊1万2000が妻女山裏手から駆け上り、上杉の陣営に攻撃を仕掛けます。しかし、上杉の陣営はもぬけの空で、誰もいません。

「どうしたことだ」
「まさか…敵はさとっておったか。だとすれば…
御屋形さまが危ない!!」


その頃、

川中島にはもうもうと霧が立ち込めていました。

信玄は床几に座り、8000名の陣立てを指揮していました。


その時、

ひひーーん

霧の向うから、馬のいななきが響きます。

「はて。敵か味方か。…見てまいれ」

「ははっ」

命じられて、浦野民部左右衛門(うらのみんぶざえもん)が馬に乗り、
霧の中へ駆け込み、
すぐに戻って来て、

「敵です!」

「なに敵。なぜ敵が目の前にいるのか。
敵は妻女山ではなかったのか!まさか…読まれておったのか!
して、敵の動きは」

「それが妙です。犀川の方へ、撤退していきます」

「なに。そうか…。それは撤退しているのではない。
車懸りの陣というものだ。全軍をいくつかの小部隊に分け、
大車をまわすように次々と襲いかかり、こちらを疲弊させようというのだ」

「ど、どど、どうなさいます!」

「うろたえるな。車懸りの陣には、
鶴翼の陣をもって迎え撃つのだ」

鶴翼の陣とは、鶴が大きく両翼を広げたような陣形です。
敵が小部隊ごとに押し寄せてくるのを、こちらは全軍をもって
いちいち各個撃破していくという形です。

しかし敵1万2千に対して8千では勝ち目がなく、
妻女山に向かっていた別働隊がいつ合流するかに
勝敗はかかっていました。

「まさか…私の啄木鳥戦法が破られたと」

山本勘助は衝撃を受けていました。上杉政虎の軍略は、
勘助のはるか上をいっていたのです。


(俺の詰めが甘かったために、御屋形さまと、
味方が今、危機に直面している。なんということか)

「この上は、討死して果てん!」

バカカッ、バカカッ、バカカッ、バカカッ、

武田本営左翼から、典厩信繁と山本勘助が上杉勢に向かって突進していきます。少し遅れて穴山信君が続きます。

典厩信繁は信玄の弟、武田信繁です。
信繁は左馬介(さまのすけ)だったので、左馬介の中国風の言い方
典厩を取って、典厩信繁と呼ばれていました。

「遅れを取るな!」

右翼からは、 
老将両角虎光(もろずみとらみつ)、
内藤昌秀(ないとうまさひで)が攻め立てます。

対する上杉勢は、

猛将・柿崎景家(かきざきかげいえ)が一千人を率いて典厩信繁めがけて槍を構えて突進します。

武田勢も典厩殿を討たせるなと、槍を構えて柿崎景家に突進し、ここに川中島の合戦が始まりました。

双方のおめき叫ぶ声は大地をゆるがし、鉄砲の響きは山谷にこだましあいました。

典厩信繁の最期

その中に武田典厩信繁は、敵の攻撃を三度受けてボロボロになりながらも、このままでは兄信玄の身が危ない、自分は死んでも兄上だけはお守りしようと覚悟を決め、兄信玄のもとに書状を送ります。

「御覧の通り、越後勢の攻撃を受け止めてはおりますが、多勢に無勢。全員討死は時間の問題です。我らが不利となりましても、けして助けをよこしてはなりませぬ。それよりもわれらが時を稼ぐ間に、勝利の工夫を考えられませ」

「源之丞はおるか」

「はっ」

そこで典厩信繁は、背負っていた母衣をおろして忠臣春日源之丞に託し、

「この母衣は、兄上の直筆の経が書かれている。敵に討たれ奪われるのは無念じゃ。必ずわが子信豊に届けてくれ」

「そんな!御屋形さま、このような役目は、腰抜け武士のつとめです。それがしは御屋形さまと枕を並べ討死しとうございます」

「ならぬ。命にそむかば、この場で勘当ぞ」

「うう…やむをえません。最後のお役目、御引受けいたしまする」

こうして春日源之丞は母衣を持って甲州へ立ち返りました。
14年後の天正3年(1575年)信繁の息子信豊は、長篠の合戦に武田方として、父の形見の母衣を背かけて出陣したということです。

「今は思うことなし」

典厩信繁はこれが最後の戦と覚悟を決め、敵陣の中に駆け入り、大音声を上げて、

「我こそは、新羅三郎義光に19代、武田信玄が弟。
武田典厩信繁。我と思はん者どもは寄り合うて首を取れ」

「あれは武田信玄の弟だ。討ち取れ」

ワーーー

攻め寄せる越後勢。

「御屋形さまを討たせるな!」

ワーー

攻め立てる甲州勢。

ガキン、カン、キーーン

双方、火出づるほどに戦う中、越後方から馬を飛ばしてきた宇佐美定行が

「くらえ典厩」

ばっと突き出しす槍を、典厩なんのとかわしては受け、
受けてはかわし、その時、

パーーーン

鳴り響く銃声。

「ぐっ…ぐはっ。兄上…」

宇佐美定行の郎党が放った銃弾に脇腹を射ぬかれ、
典厩はずるりと馬から滑り落ち、討死。

時に典厩37歳。

典厩の死骸は千曲川に流れ落ち、浮つ沈みつしていたのを、
宇佐美の郎党が首を取ろうとしましたが、典厩の郎党たちが
主君を討たせじと奪い返し、典厩が討死した千曲川のほとりに
後に供養のために寺を建てました。

典厩寺(長野市篠ノ井西寺尾)として今に伝わっています。



両角豊後の最期

両角豊後守は81歳の老骨に鞭打って、郎等50騎ばかり従えて戦っていましたが、「典厩殿討死」とはるかに聞こえると、「ああお痛ましい。人間、死生一度はあるというが、早くもご最期とは。我もお供つかまつりますぞ」と、馬にまたがり真一門に上杉勢に駆けこんでいきます。

白髪を振り乱して奮戦する、両角豊後守。そのあまりの勢いに、越後勢はざっと道を開け、バカカッ、バカカッと駆けていく。その時、越後勢に新発田重家(しばたしげいえ)の郎党がガキン、ガキーンと手鉾で渡り合い、ついに両角を取って抑えて、首を取りました。

首は一度は越後勢に渡ったものの、両角の郎党が取戻し、これを手厚く葬りました。長野市稲里町下氷鉋(しもひがの)に小さな五輪塔があるのが、両角豊後の墓と伝えられます。この塚は、地元では「もろずみさん」と呼ばれ、親しまれています。

山本勘助の最期

山本勘助はこの年63歳。45歳の時武田家に仕えてはや18年。片目・片足で容貌は悪かったものの、信玄は勘助を重く用いました。ために勘助は感激し、いよいよ熱く、武田家に仕えます。勘助の知略によって落とした城は9を数え、信玄は勘助をして「万人の目は星のごとく、勘助の一眼は月のごとし」と評しました。

以上が『甲陽軍鑑』などにある山本勘助の経歴ですが、
長らく軍記ものの中だけの、
架空の人物だろうと言われてきました。

しかし昭和44年に発見された武田信玄の書状に、
山本菅助の名がありました。

軍師・山本勘助とは一字違うのですが、
当時は音が通じていれば、あて字を使うことはよくありました。

この「市河文書」の発見により、それまで架空の人物とされていた
山本勘助の実在性が、一気に高まりました。

現在では、山本勘助は実在した、というのが
ほぼ定説になっています。

この日勘助は、啄木鳥戦法を上杉方に見破られ、味方を危機に陥れてしまったことに重い責任を感じていました。この上は、討死するのみ。敵陣の中に駆けこもうとする勘助。あっ、これは死ぬ気だなと見た原昌胤(はらまさたね)が声をかけます。

「勘助殿、早まってはなりませぬ。生きて主君にお仕えするこそ真の忠義」

しかし勘助は、

「過ぎ行く時は、流れのごとし。己のふるまいに、何も後悔はございませぬ」

バカカッ、バカカッ、バカカッ、バカカッ、

敵陣の中に駆けこんでいき、その隻眼で敵を睨みつけ、名乗っては斬り、名乗っては斬り、越後勢をさんざんに切り崩しますが、

越後方の猛将・柿崎景家が山本勘助と見て一直線に駆けつけ、郎等ともども勘助を取り囲みます。

「この山本勘助、ただでは死なぬ。御屋方さまに
最後の御奉公よ」

ずばぁ、
ぎゃあ

ずぶう
ぎゃひいい

勘助、全身に九か所の傷を受けながらも戦いますが、多勢に無勢。味方は次々と討たれていきます。柿崎の郎党たちは八方から槍で突きかかり、「ぐぶうううう」これを勘助はまともに受け、ずるるるっ、どたー落馬して討死となりました。

生き残った勘助の郎党たちは、主君の首を奪われてはならぬと敵の中に斬りこんでいき、いくつか法師首を取り戻しました。しかしいずれも血まみれで人相が変わっており、どれが山本勘助のものかわかりません。

どうしたらいいんだ。胴体とあわせてみよう。それだと勘助の胴体と首をあわせたところ、ようやく正しい首がわかりました。

首と胴体をあわせて、千曲川の土橋のほとりに埋めます。この土橋は、胴合橋(どうあいばし。どあいばし。長野市篠ノ井)として今に伝わります。松代大橋にほど近い信州そばの「そば蔵(くら)」と「おぎのやドライブイン」の間を流れる本田堰(せき)に胴合橋がかかり、その傍らには鎮魂碑があります。


信玄 謙信 一騎打ちの伝説

朝の八幡原では、弓矢の戦い、刀剣の戦い、おめき叫ぶ声や鉄砲の音が
山に谷にこだまする中、上杉政虎は、旗本数騎を率いて
武田信玄の本陣へ一直線に駆け寄ります。

この時、武田信玄は諏訪法性の兜、
黒糸威の鎧の上に緋の法衣、右手に軍配団扇(ぐんばいうちわ)を持ち、
各地で崩れ落ちる武田勢を叱咤激励していました。

「武田信玄ーーー」

ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、

上杉謙信は名馬放生月毛にまたがり、
紺糸威(こんいとおどし)の鎧に
萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたきぬ)、
金の星兜に立烏帽子(たてえぼし)、白妙の
練絹(ねりぎぬ)で行人包(ぎょうにんつつみ)、
名刀小豆長光を抜き放ち
単騎、隼のごとく信玄まで駆け寄ると、

ぶうんと斬りかかった謙信の太刀を信玄は
ぐおっ、ガチーーン。軍配団扇で受け止め、


続いてぶうん…繰り出された謙信の二の太刀を、がちーーん!
これも信玄は軍配団扇で受け止め、

続いて馬上より流星一閃、
ぶうんと振り下ろされた三太刀目が、

ずばあ。ぐっはあああ。

信玄これを肩にまともに食らい、よろめく。
そこへ、そばに控えていた原大隅守が、

「おのれ上杉政虎。大将に斬りかかるとは無礼な」

傍らなる信玄の槍を手に取り、

ええいと突き出すと、その切っ先は謙信の鎧の肩の上にそれ、
残念なりと返す槍で謙信の鎧の右肩から斜め下に打ち下しますが、
これも掠った程度で、三度目にでやと突き出した槍が
馬の尻にずぶっと突き刺さり、

「ヒヒーーーン」

ばからっ、ばからっ、ばからっ、ばからっ…

馬は一声上げて、逃げ去りました。

馬上、上杉謙信は

「くっ…無念じゃ、武田信玄、
またしても討ち取ることができなかった!」

遺恨十年一剣を磨く
流星光底長蛇を逸す

この十年、謙信はひたすら信玄を討ち取ろうと、
剣を磨いてきたのに

太刀を一閃のもとに切り下したが、謙信は
またも長い蛇…武田信玄を仕留めることができなかった。

江戸時代の儒学者頼山陽の詩
「不識庵、機山を討つの図に題す」…
通称「川中島」に有名です。

もっとも本当に武田信玄と上杉謙信が
一騎打ちをしたかどうかは、何とも言えません。
後世の創作の可能性もありますが、
ロマンとしては、大将同士の一騎打ち、カーッ
掻き立てられるものがあります。

「御屋方さま!ご無事でしたか!御屋方さま!」

信玄は、すがりつく家臣には目もくれず、
たった今政虎の太刀を受けた自分の軍配団扇を
じっと見つめていました。

「わしが受けたのは三太刀。
されどこの軍配には…七太刀の傷がついておる。
上杉政虎…げにおそろしき男よ」

世に言う「三太刀七太刀(みたちななたち)」の逸話です。

八幡原の名のもととなった八幡社境内には、
「信玄 謙信 一騎打ちの像」と「三太刀七太刀之跡」の碑が建っています。


執念の石

一方、謙信を槍で突きそこねた原大隅守も、
非常な無念を感じていました。

「あと一歩だったのに。くそっ!」

腹立ちまぎれに槍で傍らなる石を突きさすと、
ドガチーンと火花が散り、槍が石に突き刺さりました。

それが、八幡社の社殿の左手に見える
「執念の石」です。まるまると穴があいています。


武田の別働隊 到着

数に劣る武田方は、次第に押されていきます。

典厩信繁が討たれ、老将両角虎光が討たれ、山本勘助が討たれ…

もはや武田方の不利は動かしようがありませんでした。

八幡原には武田の将兵たちがその骸をさらします。

「敵はひるんでいるぞ。徹底して攻めろ!

攻め立てる上杉方。

「持ちこたえろ!」

崩れゆく武田方。

武田信玄は歯噛みをします。

「妻女山に向かった別働隊さえ合流してくれれば…」

午前10時。

千曲川方面から歓声と軍馬のいななきが起こりました。

「あれは…ああっ!別働隊がようやく
合流してくれたか」

別働隊1万2千は妻女山山麓で村上・高梨勢に
苦戦を強いられていましたが、ようやくそれを打ち破り、
千曲川を越え、八幡原に到着したのでした。

一気に形勢は逆転します。

武田勢は北と南から上杉勢を挟撃し、今度は上杉方の
死骸が八幡原を覆うこととなります。

午後4時。

武田軍が川中島全域を制圧。

「仕方あるまい。全軍、善光寺に撤退」

上杉政虎は、撤退を命じるほかありませんでした。

永禄4年(1561年)9月10日、
第四次川中島合戦はこうして終わりました。

死者は双方あわせて7000人とも伝えられます。

謙信は越後に、信玄は甲府に帰還し、これ以後、
両雄が直接戦うことはありませんでした。

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本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永