寛和の変

平安時代中期。

花山天皇はその治世はわずか2年ながら、文化を愛好し、役人の不正を正し、よい政治を行いました。

花山天皇
花山天皇

関白には先帝・円融天皇の時代に引き続き、藤原頼忠(ふじわらのよりただ)が就任しましたが、政治の実権を握っていたのは側近の藤原義懐(ふじわらのよしかね)と藤原惟成(ふじわらのこれなり)でした。

スポンサーリンク

さて花山天皇には何人かのお后さまがありましたが、中にも藤原為光の娘シ【心+氏】子を花山天皇は深くご寵愛でした。しかし、シ子は無理なお産がたたって産後8ケ月で帰らぬ人となってしまいます。

「なんということじゃ。最愛のシ子を失って、
私はこれから何のために生きていくというのだ。
もう生きる意味が、無い」

花山天皇の落ち込みようは大変なもので、政治への意欲など、
すっかり無くなってしまいました。
ついには、周囲に出家をほのめかすようになりました。

「なに?帝が出家を望んでおられる?」

ぴくりと眉を動かしたのが、藤原兼家です。

花山天皇の皇太子は藤原兼家の娘詮子(せんし)と円融天皇との間に生まれた懐仁(かねひと)親王です。

藤原兼家としては、さっさと花山天皇に退位してもらって孫の懐仁親王が即位すれば、天皇の外戚となれるわけで、こんなにトクなことはありません。

「出家をお望みとは願ったりかなったり。
心変わりをされない内に、さっさとご出家していただこう」

そこで兼家は、四男の道兼に、ある策を授けます。

寛和二年(986年)6月23日、夜明け方。

花山天皇は清涼殿の縁側で有明の月をながめておられました。

「ああ…去年はシ子とこの月を見ていたのに。
シ子はもういない。人の世のむなしさよ」

おそばに仕えていた藤原道兼が花山天皇に申し上げます。

「まったくその通りでございます。人の世の常ならぬことは
むなしい限りでございます。いかがでしょう。
いっそ一思いにご出家をされては。
…お一人で、というのは不安もございましょうから。
この道兼がお供いたします」

「おお…道兼。お前も出家してくれるというのか」

しかし、いざ出家となると花山天皇は心配になってきました。

「こんな月の明るい晩に出家をするのは、
恥ずかしいのう」

すると、すーーっと月が雲に隠れてしまいました。

「帝、これでおわかりでしょう。
さっさと出家せよと、天のおつげです。
ぐずくずしていても、いいことはありません」

「そうじゃな。急ごう」

そこで道兼が先導して花山天皇は進んでいかれますが、

「ちょっと待て」
「まだ何か?」
「なくなったシ子と交わした文があるのじゃ。
さのあまり、破ることもできずに取っておいたものじゃ。
あれを置いていくわけにはいかぬ」

道兼はジリジリあせってきました。

「帝。早くしないと邪魔が入ります。そのような
俗世への未練はキッパリ断ち切って、さあ、参りましょう」

「う…うむ、そうじゃな」

こうして、花山天皇と藤原道兼は夜中、ひそかに御所を抜け出し、
牛車に乗って土御門大路を東へ向かい、
山科の元慶寺(がんけいじ)を目指します。

その頃、陰陽師安倍晴明は、土御門大路に面した館で
式神に指示を与えていました。

「今夜、帝がご退位なさるとの天の知らせがあった。
我が式神よ、内裏に行って、見てまいれ」

「晴明さま、おまかせください」

目に見えない式神がすうーと門を開けて、
安倍晴明の館を出たところ、ちょうど花山天皇の乗った
牛車が晴明の館の前を通り過ぎたところでした。

「あちゃ~っ、間に合わなかったか」

安倍晴明の式神は、そのままもどって
晴明に事の次第を報告しました(『大鏡』より)。

一行が鴨川にさしかかると、松明を持った武士団があらわれ、
天皇の乗った輿の前後を警護します。

「道兼よ、なんじゃあの者たちは」
「ははっ、源満仲率いる武士団でございます。
帝のことを警護させております」

「うむ…?そうか」

後で考えると、急に出家を思いついたのに、そこに
武士団が警護にあらわれるというのは、変な話でした。

一行は山科の元慶寺に入ります。

持仏堂に入る花山天皇と藤原道兼。

まず花山天皇から髪をおろされます。19歳でのご出家でした。

「ああ…これでいよいよ仏弟子となれるのか。
心が洗われるようじゃ」

次に藤原道兼の番となると、道兼は言いました。

「父に挨拶もしないでは親不孝となります。
まずは父に挨拶をしてきます」

「そうか。兼家もさぞ悲しむであろうが…。
俗世でのわだかまりは、きっぱり断ち切っておくべきであろう。
行ってくるがよい」

「では、後ほど」

そう行って道兼は元慶寺を去り、二度と戻ることはありませんでした。

その頃宮中では、藤原兼家は長男の道隆、次男の道綱に命じていました。

「今のうちに、神器をおさえるのだ」

「ははっ」「ははーっ」

道隆、道綱は清涼殿にあった皇位継承の証たる
神璽と宝剣を懐仁(かねひと)親王のいる凝花舎(ぎょうかしゃ)に遷し、
御所のすべての門を閉じました。

一方、花山天皇の側近藤原義懐・藤原惟成は
花山天皇を必死に探し回っていました。

「帝、帝どこにおられるのです」

そして、たどりたどって山科の元慶寺に到ったとき、
二人はそこに見たのです。御髪(みぐし)を下ろされた、
花山天皇のお姿を。

「なんと!帝…」
「お前たちか。すっかり騙されてしまったようだ。
馬鹿な帝王と笑ってくれ」
「そんな、帝。この上は、私たちも出家いたします」

こうして花山天皇側近の藤原義懐・藤原惟成は責任を取る意味からも花山天皇とともに出家しました。

かくして7歳の懐仁親王(かねひと)が一条天皇として即位します。また冷泉天皇と兼家の娘超子との間に生まれた居貞(いやさだ)親王が皇太子に立てられました。後の三条天皇です。

一条天皇
一条天皇

天皇も、皇太子も藤原兼家の孫ということになり、いよいよ藤原北家が台頭する地盤が整えられたこととなります。

その後、ご出家された花山法皇は紀伊国熊野を基点として三十三所の観音霊場を巡礼され大きな法力を身につけられたと伝えられます。

花山法皇の三十三所巡礼のコースは「西国三十三所」として今に伝わっています。

花山天皇が出家した山科の元慶寺は京都府京都市山科区北花山河原町13。地下鉄東西線 御陵下車 徒歩約20分にあります。

つづき 藤原道長の栄華

解説:左大臣光永

音声つきメールマガジン「左大臣の古典・歴史の名場面」のご案内

現在18000人以上が購読中。

メールアドレスを入力すると、日本の歴史・古典について、楽しくわかりやすい解説音声を無料で定期的に受け取ることができます。毎回10分程度の短い解説で、時間を取りません。楽しんで聴いているうちに、日本の歴史・古典について、広く、立体的な知識が身につきます。スマートフォン・Androidでもお聴きになれます。不要な場合はいつでも購読解除できます。

いつも使っているメールアドレスを入力して、 「無料メルマガを受け取る」ボタンをクリックしてください。次回からお使いのメールアドレスにメルマガが届きます。

≫詳しくはこちら



スポンサーリンク