桓武天皇(一)光仁朝から桓武朝へ

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こんにちは。左大臣光永です。世の中は連休も終わり通常運転に戻りましたね。いかがお過ごしでしょうか?

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本日から四日間にわたり「桓武天皇」についてお話します。

794年に平安京に都を遷した桓武天皇。「なくようぐいす平安京」と覚えていることでしょう。400年にわたる平安時代の礎を築いた桓武天皇とはどんな人物だったのか?なぜわずか10年で長岡京から平安京に遷都したのか?四日間にわたり語ります。

平安京 豊楽殿 模型(京都アスニー)
平安京 豊楽殿 模型(京都アスニー)

桓武の誕生

天平9年(737)聖武天皇の時代、桓武は生まれました。父は天智天皇の孫・白壁王(後の光仁天皇)。母は渡来系氏族である和(高野)新笠。名を山部王(やまべのおおきみ・やまべおう)といいました。

桓武天皇 系図
桓武天皇 系図

母の高野新笠は百済の渡来人を祖とする和乙継(やまとのおとつぐ)を父、土師真妹(はじのまいも)を母に持ちます。

桓武天皇は丑年の生まれです。そのため晩年に牛を保護するなど、自分が丑年であることを強く意識しています。

山部王が生まれた当時、天然痘が猛威をふるっていました。種子島に漂着した遣唐使船から持ち込まれたものと思われます。

不比等の四人の息子たち(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)も次々と逝きました。しかし山部王は天然痘にかからず無事に成長していきました。

藤原四子
藤原四子

山部王

天平宝字8年(764)、藤原仲麻呂が政府にそむき兵を挙げようとしますが、密告により事前に発覚。

孝謙上皇はすぐさま各地の道路を封鎖し、仲麻呂を近江高島の三尾崎(みおのさき)に追い詰め、討ち取りました。

この「藤原仲麻呂の乱」において、山部王は上皇方として戦い功績を挙げたと思われます。戦後、孝謙上皇がふたたび位について称徳天皇となると、山部王は称徳天皇から重く用いられるようになります。このあたりがキャリアの始まりでしょう。

光仁天皇

神護景雲4年(770)称徳天皇が跡取りもなく誰を皇太子と遺言しないまま亡くなりました。誰を後継者とするかいろいろモメましたが、結局、藤原式家の藤原百川の後押しで天智天皇の孫・白壁王が即位することとなりました。49代光仁天皇です。称徳天皇のもと権力をふるってきた僧道鏡は下野薬師寺に左遷されました。

井上内親王呪詛事件

光仁天皇即位の翌月、井上(いのえ)内親王が皇后に立てられ、他戸(おさべ)親王が皇太子に立てられます。

井上内親王は聖武天皇の娘です。聖武天皇は天武天皇の曾孫です。したがって井上内親王は天武の四代目の孫ということになり、つまり天武系です。

井上内親王 系図
井上内親王 系図

光仁と井上内親王で天智系・天武系のペアとなるわけです。系図をご覧ください。これは天武系から天智系に皇統が切り替わったことへの反発・反感をやわらげる緩衝材としての意図があったようです。

しかし、天智系を推す人々にとっては井上内親王・他戸親王の存在は邪魔です。

宝亀3年(772)、突如謀反の疑いが起こります。井上内親王が夫である光仁天皇を呪詛したというのです。そこで井上内親王は皇后の位を解かれ、他戸親王は廃太子となります。そして母子とも宝亀6年(775)同じ日に失意のうちに没しました。井上内親王呪詛事件です。

同じ日に没するというのは不自然なので、殺されたと思われます。

この事件はおそらく事実無根です。山部王擁立をはかる藤原式家の藤原百川が、邪魔になった井上内親王・他戸親王を排除した陰謀と思われます。

山部親王、立太子

その間、山部は親王宣下を受け四品に叙せられ、中務省(なかつかさしょう)という天皇補佐官の役に任じられます。父光仁天皇の補佐をよくやったようです。

とはいえ山部王はわずかに皇位継承者に加えられていただけで、母方の身分を考えると、まず即位できる可能性はありませんでした。だから山部王の実弟の早良王(後の早良親王)もはやくに仏門に入っています。

ところが番狂わせが生じました。

宝亀3年(772)、他戸親王が廃太子されたことにより、それまで日の当たらなかった山部親王(やまべしんのう・やまべのみこ)が皇太子に立てられます。

しかし山部親王の母は渡来人の血筋。いやしい母を持つ山部親王を嫌う声もあり反発が多くありました。しかし藤原百川の強い後押しで山部親王が立太子されました。

後に桓武自身が母が渡来系であることを公言しています。また2001年の天皇誕生日に今上陛下が桓武天皇の母が渡来系であることに触れて日本の韓国の「ゆかり」発言をされたことは記憶に新しいです。

藤原百川

藤原百川は藤原式家・宇合の息子。

かねてから山部親王と交友があり心酔していました。そこで山部親王を助けて桓武天皇として即位させたのです。桓武天皇は生涯、藤原百川の功績を忘れませんでした。即位翌年の782年には、桓武天皇は百川の娘旅子を妻として迎えています。

しかし百川自身は桓武天皇の即位を待たずして、779年に亡くなりました。

桓武天皇は自分のために力を尽くしてくれた百川に報いと考えました。そこで百川の息子・藤原緒嗣(おつぐ)を重く用いました。元服式をみずから執り行い、緒嗣に御剣を下されました。

即位

天応元年(781)、光仁天皇は譲位し、山部親王が桓武天皇として即位しました。41歳でした。

「桓武」とは史記の注釈書によると「武によって国土を広げた王」に贈られる称号です。桓武天皇はその名の通り、即位のはじめから「武」を強く意識していました。

皇太子には13歳年下で実母弟の早良親王が立てられます。平城宮の大極殿で即位式が行われました。以後四半世紀にわたる桓武政権の船出です。

早良親王は10代で東大寺に入り出家していました。その後、大安寺東院に入っていましたが、兄桓武天皇の立太子とともに還俗したものと思われます。

桓武天皇・早良親王 系図
桓武天皇・早良親王 系図

桓武は息子の安殿(あて)親王がいましたが、即位時8歳だったのでまだ早いということで弟の早良親王を皇太子に立てたものと思われます。

これまったく、天智天皇・天武天皇・大友皇子と同じ形です。後々問題起こること確定のパターンですね。

光仁上皇は譲位から8月後に亡くなりました。桓武は中国古典にのっとり3年間の喪に服すことを提案しましたが、それでは朝廷の業務が滞ると反対が多くありました。、そこで喪は一年に満たないものとなりました。その後、いよいよ本格的に桓武天皇の時代に入っていきます。

渡来系氏族の登用

桓武は渡来系氏族をさかんに登用しました。かの坂上田村麻呂もそうです。菅野真道(すがの まみち)も、桓武天皇に重く用いられた役人ですが、渡来系の血を引いていました。これは単に母方が渡来系だからひいきしたのではありません。奈良時代の政争に関わらない、第三者の立場としての渡来系に期待したと思われます。

桓武天皇には確認されているだけでも27人の妻がいますが、その内6人が渡来系です。渡来系の比率が異常に高いです。当時渡来人が力を持っており、平安京造営にも働きがあり、いろいろと期待されていたことが、見て取れます。

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聖武天皇の大仏建立・鑑真和上の来日・
藤原仲麻呂の乱・
桓武天皇の即位から長岡京遷都の直前まで。

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解説:左大臣光永

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