元弘の変

吉田定房の十箇条の諌奏

正中の変が未然に発覚したことにより、討幕計画は白紙に戻りました。しかし後醍醐天皇は諦めてはいませんでした。

「必ず、幕府を倒すのだ…」

執念を燃やす後醍醐天皇を思いとどまらせようと、側近の吉田定房が「十箇条の諌奏」を奉ります。

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「王者は仁を以て暴力に打ち勝つべきです。今は国家草創の時期ではなく、今畿内の兵を招集しても関東の軍勢に勝つことは不可能でしょう。戦となれば民が多く死にます。哀しむべきことです。時が来れば必ず幕府は衰えます。今は待つべき時です」

しかし、後醍醐天皇は、そんな悠長なことが言っていられるかと、お聞き入れになりませんでした。

花園上皇の訓戒

一方、持明院統の花園上皇は、皇太子である量仁親王(後の光厳天皇)に訓戒します。

「世が太平ならどんな凡庸な君主でも天下を治めることができる。しかし今、乱世の兆しがある。いったん世が乱れれば、たとえ聡明な君主でも、それを治めるのに長い年月がかかる。よくよく、心して学問し徳を積みなさい」

後醍醐天皇の即位以後、落ち目の感のある持明院統でしたが、花園上皇は敏感に世の中の変化を感じ取っておられたのです。

追い詰められる後醍醐天皇

「主上、この上はご譲位あそばされては?」

「譲位?ばかを言うな。吾は譲位など、断じてせぬぞ!」

後醍醐天皇に譲位を勧めたのは、皇太子邦良親王の勢力です。後醍醐天皇譲位となれば、「文保の和談」に従って、邦良親王が即位するはずでした。

しかし、邦良親王は皇太子とはいっても後醍醐から見て甥にあたり、後醍醐にとっていまいち面白くありません。やはり直系の子孫に帝位を継承させたい所です。

一方、持明院統もひとまずは後醍醐を退位させて邦良親王を即位させたほうがいいと見て、さかんに幕府に働きかけます。今や天皇家は三つに割れていました。

持明院統、後醍醐方、邦良親王方が、それぞれ自分に有利なはからいを求め、幕府に工作します。ところが、

嘉暦元年(1326年)、邦良親王が亡くなります。すると両統迭立の原則に沿って、持明院統から皇太子を立てました。量仁(かずひと)親王、後の北朝初代・光厳天皇です。

ここに至り、後醍醐は完全追い詰められました。

わが直系の子孫に帝位を継承できないとしても、邦良親王が帝位につけばまだ、大覚寺統内部の話。近い将来、わが子孫に皇統が戻る可能性も無くはありません。しかし邦良親王が亡くなった今、自分が退位した後は自動的に持明院統に皇統が移ることになります。そうなるとわが子孫に皇統が戻ることは極めて難しくなります。

「もはや、討幕しかない!!」

発覚

元徳3年(1331年)4月29日、京都の吉田定房から鎌倉への飛脚が到着します。

「主上は世を乱そうというおつもりです。計画の張本人は、右中弁日野俊基。また僧文観、円観らは主上のおそばに侍り、関東調伏の祈祷をささげています」

「なんと!」

吉田定房は後醍醐天皇の側近です。はたして吉田貞房は後醍醐天皇を裏切ったのか?もしくは後醍醐天皇を止められないと見て、なんとか未然に討幕計画を防ぎ、お命だけはお助けしようの一心から密告したのか、それは不明です。とにかく、後醍醐天皇の討幕計画は鎌倉の知る所となりました。

後醍醐天皇 ごまかす

すぐさま、関東申次・西園寺公宗(さいおんじきんむね)が京都に赴き、後醍醐天皇に詰め寄ります。

「主上御謀反ということですが、まことですかな」

「ぬおっ、それは、いや」

関東申次とは幕府と朝廷の調整役のことです。鎌倉時代後半は西園寺家が担当していました。詰め寄る西園寺公宗に後醍醐天皇は答えます。

「ただひとえに天魔の所為であったのだ……」

つまり魔物のしわざで、自分の意思ではないと、ごまかしたのです。これを伝え聞いた持明院統の花園上皇は、「嘆かわしい…」と日記に記しています。

落花の雪に踏み迷う…

5月はじめ、2人の使者が上洛。すぐに日野俊基・僧文観、円観らを逮捕します。翌6月、日野俊基、文観、円観らはそれぞれ、鎌倉へ護送されます。

太平記第二巻「俊基朝臣再び関東下向の事」の段は日野俊基の鎌倉行きの道中を描いた名文です。

落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の暮れ、一夜を明かす程だにも、旅寝となれば物憂きに、恩愛(おんあい)の契り淺からぬ、我が故郷(ふるさと)の妻子(つまこ)をば、行方も知らず思いおき、年久しくも住みなれし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思わぬ旅に出でたまう、心の中(うち)ぞ哀れなる。

後日、日野俊基は鎌倉の葛原で斬られました。前の正中の変で佐渡に配流されていた日野資朝も佐渡で斬られました。

北条高時と長崎高資の争い(元徳の騒動)

さてこの頃、幕府内部でも争いが起こっていました。目下幕府では内管領長崎高資が権力を握っていましたが、高資は権力を鼻にかけ、ついに北条高時にも従わなくなっていきました。そこで北条高時にたきつけた者があります。

「太守さま、何でも長崎父子の言いなりでよろしいのですか!
きゃつらは北条得宗家をあなどり、むしろ自ら執権とも
得宗ともいわんばかりのふるまいです」

「うむむ…私も前々から、長崎父子はやりすぎと思っていたんだ」

元徳3年(1331年)秋。

北条高時は長崎の一族である高頼に命じて長崎高資を討伐させようとしました。

「なにい、わしを討つだと?生意気な!!」

長崎高資は高時の企てを事前に察知。逆に軍勢を差し向けます。北条高時は追い詰められ、

「わ、私は何も知らん!ぜんぶ高頼の独断でやったことだよ!」

罪をすべて高頼になすりつけ、奥州に流罪にしてしまいました。主上御謀反という大変な時期に、鎌倉ではこんな不毛な内輪争いをしていたのです。

後醍醐天皇、笠置山に陣を敷く

そんなこともあってか、鎌倉はすぐに後醍醐天皇を逮捕する動きには出ませんでした。また、畏れ多くも天皇を捕えることに抵抗があったのかもしれません。一方、後醍醐天皇の側でも特別な動きを見せず、しばらく京都と鎌倉で互いに様子見が続きました。

ところが3カ月後の8月24日夜、

「父上、鎌倉の討手が来ます!早くお逃げください」
「おおう、よく知らせてくれた!」

後醍醐天皇は突如、三種の神器を携え、内裏を脱出し、奈良へ向かいます。『太平記』では比叡山にいた息子の大塔宮護良親王が危機をさとり、父天皇に知らせたという設定になっていますが、事実はどうだったか、わかりません。

内裏を出た後醍醐天皇は一時東大寺に入ります。ついで山城の鷲嶺山(じゅぶせん)にこもり、さらに場所を移して、京都南方の笠置山(かさぎやま)に入ります。

後醍醐天皇笠置山へ
後醍醐天皇笠置山へ

笠置山は奈良から北西約15キロ。険阻な天然の要害です。北には木津川沿いに伊賀街道が東西に走り、山頂には笠置寺があります。

陽動

「なに!主上が皇居を脱出したもうた!!」

京都では大騒ぎになります。六波羅探題は後醍醐天皇の側近を捕えて口を割らせます。

「主上は叡山へ臨幸され、三千の宗徒を率いられ、御謀反の兵を挙げられるのだ…」

「た、大変だ!」

六波羅探題の武士たちは、すぐさま比叡山に向かいますが、もちろんこちらはおとり。唐崎の浜にて比叡山の宗徒と合戦になるも、さんざ戦った末に御輿を覗けば、乗っているのはニセモノでした。

「やられたあっ!」

唐崎へ陽動
唐崎へ陽動

討幕軍 続々集まる

一方、笠置山にはぞくぞくと味方が集まってきました。唐崎で六波羅探題が破れたときき、ふだんから鎌倉に不満を持つ者たちがここぞと集まってきたのです。

「いつまでも鎌倉の好きにさせてなるものか」

「主上万歳ーーー!!」

わあーーーー

大いに盛り上がる笠置山の陣営。

幕府軍 笠置山へ

8月29日、鎌倉に知らせが届きます。すぐさま鎌倉から大仏貞直・金沢貞冬・長崎高貞らの大軍が笠置山に向かいました。

翌9月20日、持明院統の光厳天皇が、三種の神器の無いままに即位します。さて、幕府の大軍が笠置山を包囲してた頃、河内で兵を後醍醐天皇方として兵を挙げた男がありました。

その名を楠正成といいます。

楠正成像(皇居外苑)
楠正成像(皇居外苑)

赤坂城の戦い

楠正成は以前から後醍醐天皇に随い、河内や和泉で悪党として活動していました。悪党とは鎌倉時代末期に各地にあらわれた、幕府の命令をきかず、強盗や海賊行為をする連中のことですが、後には次第に力をつけ、幕府の圧政に対抗する勢力に成長していました。

後醍醐天皇挙兵ときき、楠正成はがぜん張り切ります。河内の赤坂城では楠軍と幕府軍との間に激しい戦いが繰り広げられました。

「それっ、こんな城など一気に攻め落とせ」

わーーっ、わーーーっ

幕府軍が城柵を上ってきたところで楠正成は、

「縄を切れっ!」

ふつっ、ふつっ、

ぐらっ、ぐわらっ

「な!なに!!」

どかかかーーーっ、
ぐわらぐわらぐわら

「うわああーーーっ」
「たた、助けてくれえ!!」

丸太や岩石が転がり出し、一気に幕府軍を押し流しました。

「ええい、こんなことで幕府軍が負けられるか」

乗り越えてきたわずかな幕府軍に対して楠軍は、

ばざーーーっ
ばざばざーーーっ

「あぢいいい」
「ぎゃあああああ」

熱湯を降り注ぎ、幕府軍を撃退しました。

このように奇想天外なゲリラ戦により幕府軍を退けた楠軍でしたが、ついに兵糧が尽きてしまいました。

「正成さま、いかがなさりますか。降伏ですか?」
「いや、まだ手はある!」

夜。

楠正成の指示で、幕府軍の死体を集め、火をつけました。

ゴオーーーー…

炎にまぎれて楠軍は赤坂城を脱出しました。焼け跡で死体の山を見つけた幕府軍は、楠正成が自害したものと思い、それ以上の追及しませんでした。

後醍醐天皇 隠岐へ

一方、笠置山では幕府軍に後醍醐天皇の軍勢はさんざんに攻め立てられ、後醍醐天皇はわずかなお共とともに山中に難を逃れます。

「さあ、主上、こちらへ」
「ぐぬぬ…なんとしても生き延びるぞ…」

ガサガサ…ガサガサ…

草むらを掻き分け掻き分け進む後醍醐天皇一行。

「あっ、おおっ、そこにいる者!止まれ」

「くっ…無念…」

鎌倉方の武士に呼び止められ、後醍醐天皇は捕えられてしまいました。翌元弘2年(1332年)隠岐島に流されます。しかし後醍醐天皇の意思は不屈でした。

「かならず、京に戻って来るぞ…」

隠岐島へ向かう船の中で、自らにそう誓う後醍醐天皇でした。

これら一連の事件を「元弘の変」といいます。

次回「後醍醐天皇の再起」に続きます。

解説:左大臣光永

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