奥州安東氏の乱

北条高時の田楽狂い

14代執権に就任した北条高時でしたが、政治には無関心でした。
ワンワンワンワン、
ワオンッ

「いいぞ!もっとやれ!そこだっ。よし!
よくやった!褒美を取らすぞ」

日々田楽や闘犬にうつつを抜かし遊びまくっていました。政治は内管領(うちのかんれい)の長崎高資(ながさきたかすけ)にまかせっきりでした。

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安東氏の争い

この頃奥州陸奥国に、安東季久(あんどすえひさ)・安東季長(あんどうすえなが)という兄弟がありました。彼らは北条義時の時、代官として陸奥国津軽に派遣されてきた安東氏の子孫でした。だから元は北条氏の御内人です。

「跡取りは私です」
「私こそ跡取りです」

安東季久・季長兄弟はたがいに跡取りになることを主張し、たびたび鎌倉に訴えていました。

「うむうむ、わかった、わかった」

幕府の実力者長崎高資は、双方から賄賂を取り、「よきにはからおう」と約束しました…約束、だけしておいて、ほったらかしにしました。

「いったい鎌倉ではどういう判断なのだ!」
「どちらが跡取りなのだ!」

陸奥ではいよいよ争いが深くなり、安東季久・季長兄弟はたびたび武力衝突を繰り返しました。安東季久・季長兄弟のそれぞれに豪族や農民が加担しいよいよ合戦の様相を呈していきました。幕府からはたびたび反乱鎮圧のために軍勢を派遣しました。

嘉暦元年(1326年)、北条氏の御内人である工藤祐貞(くどうすけさだ)を討伐使として陸奥に派遣。安東季長を捕虜として戻りました。

それでも反乱はやまず、嘉暦2年(1327年)またも討伐使を差し向けますが、それでもやまず、さらに翌年の嘉暦3年(1328年)、ようやく両安東氏の間に和談が成立しました。

北条高時の出家

執権北条高時は、陸奥の叛乱うち続くさなかの嘉暦元年(1326年)、病気ということで24歳の若さで出家しました。

「あ~あ、闘犬も飽きてきたなあ。出家でもしてみるか」

そんな感じだったでしょうか。陸奥の叛乱に対して何か積極的に手を打とうとかいうマジメな姿勢はありませんでした。

金沢貞顕から赤橋守時へ

次の執権としては高時の弟・北条泰家が就任するものと誰もが思っていました。ところが、内管領長崎高資の指示により、北条一門の金沢貞顕が15代執権に就任します。

「泰家が、執権になれないですって!!」

泰家の母大方殿(おおかたどの)と、泰家本人は激怒します。

「母上、こんな屈辱があるでしょうか。私は無念です」
「そうです!許し難いことです」

ついに泰家は出家してしまいました。

怒り狂った北条泰家が、金沢貞顕を討とうとしいてるという噂が立ちます。

「じょ、冗談じゃない!そんな奴介ごとはご免だ」

怖気着いた金沢貞顕。なんと執権就任10日目で出家してしまいます。ついで北条一門の赤橋守時(あかばしもりとき)が16代執権となります。これが鎌倉幕府最後の執権です。

北条氏 略系図
北条氏 略系図

ただし執権といっても名ばかりで、出家した北条高時は得宗の惣領として君臨し続けます。そして高時のもと、内管領長崎円喜・高資父子は依然として権力をふるい続けました。

後醍醐天皇、討幕の意思を固める

「ふむ…陸奥の叛乱に対して、幕府は何の手も打てなかったのだな…」

後醍醐天皇は奥州安東氏の叛乱の間、注意深く情勢を見守っていました。その結果、思うのでした。

(鎌倉にはもはや地方の反乱をおさめるような力は無い。
得宗の権力も腐敗しきっている。今ならやれる!)

後醍醐天皇は、ちゃくちゃくと討幕の計画を進めていきます。

次回「元弘の変」に続きます。

解説:左大臣光永

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