栄西と道元

栄西

外に涅槃の扶律を打(た)し、内に般若の智慧を併(へい)するは、けだし禅宗なり

『興禅護国論』序文より

臨済宗の祖栄西。肖像画や銅像に見られる栄西の逆三角形の頭は、とても特徴的で、一度見たら忘れられないインパクトを残します。また栄西は禅宗だけでなく、お茶の風習や、味噌や醤油を伝えたことでも知られます。

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栄西は保延7年(1141年)備中(岡山県)吉備津神社の神官賀陽氏(かやし)の子として生れます。吉備津神社は古代の山陽道で一二を争う神社でした。

13歳で比叡山に登り、翌年出家。この時栄西の僧名を名乗ります。ちなみに正しくは栄西(ようさい)ですが、栄西(えいさい)の方が一般化しているので、ここでも栄西(えいさい)と呼ぶことにします。

主に天台密教を学びました。しかし当時、比叡山は戒律は乱れ、僧たちは俗世以上にドロドロした権力争いにしのぎを削り、堕落しきっていました。

「これではダメだ。堕落した天台宗を立て直すには、天台宗の生まれた本場中国の天台山に行って、学び直さなければ」

28歳の時、栄西は海を渡り宋の国・天台山に登ります。

「あれえっ!何だこれは!」

栄西は驚きます。予想していたのと全く違ったのです。天台宗の教えを求めて来たのに、来てみれば天台山は禅宗の寺院に変わっていました。博多で船を待っている時、商人から今宋では禅宗が人気だと聞いてはいましたが、ここまでとは思いませんでした。

5カ月の滞在の後、帰国しふたたび比叡山に入ります。目的は遂げられなかったものの、禅宗の流行を目のあたりにしたことと天台宗の典籍を持ち帰れたことは、一応の成果でした。

また、先に入宋していた俊乗房重源とよしみを結べたことも大きなことでした。俊乗房重源は平重衡に燃やされた東大寺の大仏の再建運動をしたことで有名な僧です。

帰国後、栄西は天台密教の験者として歩み始めます。九州今津の誓願寺を拠点に天台密教の教えを説きます。しかし、それは表向きのことで、実は密教よりも禅宗に心惹かれていました。また栄西の心にひっかかるものがありました。

「真に仏教の奥義に触れるには、本場の本場、天竺に行かなくてはならない」

文治3年(1187年)、47歳の栄西は再度、宋へ渡ります。宋を経てインドへ渡るつもりでした。そこで臨安(杭州)で役人に申請します。

「私は日本天台の僧です。本場の仏教を求めて、天竺に渡りたいのです」

「天竺!とんでもない。目下、蒙古の襲来が激しく、西域地方は蒙古の領域となっている。そんなキケンな所に、許可することはできない」

結局、インドには渡れずじまいとなり、落胆する栄西でしたが、一方でうれしいこともありました。天台山ではよき師に恵まれ、4年間、みっちり禅について学ぶことができたのです。

建久2年(1191年)栄西は帰国しました。

すぐさま栄西は都に上り、禅による天台宗の立て直しを図ろうとしますが、延暦寺や朝廷の弾圧を受けます。

この頃京都では大日能忍(だいにちのうにん)が達磨宗(禅宗)を独自に立てて広めようとして朝廷の弾圧を受けていました。栄西の禅宗もこれに連座する形で迫害されました。

また、九州博多の筥崎宮の良弁という僧が延暦寺に働きかけ、朝廷に、禅宗を禁止する宣旨を出させようと動いていました。良弁は九州で禅宗が勢いを増していることに、焦っていたのです。

建久5年(1194年)、ついに朝廷から禅宗禁止令が発布されます。

「だが!こんなことでめげてはいられない。
迫害はもとより覚悟の上!」

そこで栄西は、九州博多にて10年かかって日本最初の禅寺・聖福寺(しょうふくじ)を建立します。聖福寺は現在の博多駅のやや北に位置します。栄西は源頼朝に申請してこの地の払い下げを許され、10年かけて聖福寺を完成させたのでした。

ところで栄西が二度目の入宋で持ち帰ったのは禅の教えだけではありません。栄西は修行中、喫茶(お茶)のしきたりについて熱心に研究していました。座禅を組むと眠くなる。眠気をはらうにはお茶が役に立つということで、禅と茶は深く結びついていたのです。

後年、栄西は『喫茶養生記』をあらわし、将軍源実朝に献上します。その日、実朝は二日酔いでした。「うう…頭が痛い」「鎌倉殿、二日酔いには茶が一番です」「なに詳しく話せ」こうして書かれたのが『喫茶養生記』だと伝えられます。

58歳の時、栄西は『興禅護国論』を著し、禅を信奉することが国家を守ることにつながるのだと主張しました。翌年、鎌倉亀谷(かめがやつ)に北条政子の発願により寿福寺を建立。栄西は開山として招かれました。

62歳の時、将軍源頼家の指示で京都に建仁寺を建立します。ただし建仁寺は純粋な禅寺でなく、天台宗・真言宗・禅宗の三宗兼学の道場でした。栄西の本音としては禅宗だけを広めたいものの、それでは周囲の反発を招く。だからまずは世間と妥協しておいてじょじょに禅宗を広めようという考えだったようです。

このあたりの世俗に対するバランス感覚が、後の道元とはまったく違う所です。

以後、禅宗は京都と鎌倉で広まっていくこととなります。

道元

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さへてすずしかりけり

道元

栄西の三角頭と比べると道元の頭部はガッシリしていてエラがはっており、いかにも大きな声を出しそうです。

道元は庄子2年(1200年)内大臣久我通親(こがみちちか。源通親)の子として京都に生まれます。母は松殿基房の娘。両親ともに摂関家という血筋のよさです。ところが両親との死別により13歳で比叡山に登り出家。翌年天台座主公円から受戒して正式に僧となりました。

当時の比叡山は俗世以上の出世競争に明け暮れ、園城寺と抗争を繰り返したり、強訴といって都へくりだし無茶な要求をつきつけたり、堕落しきっていました。まじめに学問や修行をする空気はありませんでした。

「これではダメだ」

道元は13歳で比叡山を下り、寺寺を訪ね歩きます。18歳の時、栄西の開いた建仁寺に入り、栄西の高弟である明全(みょうぜん)について禅を学びます。そのうちに、どうしても禅の本場である宋に渡りたくなってきました。かつて栄西が宋に惹かれたように、道元も宋に惹きつけられていきました。

貞応2年(1223)24歳の道元は師である明全とともに日宋貿易の商船に便乗して、宋に渡ります。同じ船内には、瀬戸焼の祖といわれる加藤四朗左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)の姿もありました。

道元は天童山景徳寺(浙江省寧波)の如浄(にょじょう)について曹洞禅を学びます。

ある時道元の乗った船に、宋の禅宗五山の一つ阿育王山の典座(てんぞ)が訪ねてきます。典座とは、寺の食事を準備する役です。「シイタケを売ってくださらんか」見ると、ヨボヨボのじいさんです。道元は呆れて言います。

「あなたは老人なのだから、買い出しなどしないで、座禅を組むとか勉強に専念するのがいいのではないですか」

すると年老いた僧は答えました。

「お前は修行の何たるかをまるでわかっておらん。拙僧は年老いて後典僧職についたので、これを最後の弁道と心得ている。この大切なお役を人に譲れるものか。そんなことを言うのは、お前は言葉を知らないのだ。」

「弁道とは?言葉とは?」

「知りたければ、いつか阿育王山に来るがよい」

老人はそう言って船を立ち去った…というエピソードが伝わっています。

また、こんなこともありました。

道元の勉強熱心なのを見て、ある修行僧が訪ねます。

「そんなに勉強して、どうするのかね?」

「古人の行いの跡を知りたいのです」

「古人の行いの跡を知って、どうするのかね?」

「日本に帰って、人々を教化します」

「なんのために?」

「それが人々を利することになるからです」

「つまるところ、何のためだね?」

「それは…」

とうとう答えられなくなってしまいました。そこで道元は悟ったのでした。

(そうか…何かのために行を行うのではない。
行そのものが、それ自体として、尊いのだ)

道元の大悟(だいご)…悟りの時は、突然訪れました。僧堂で皆で座禅をしていた時。一人の僧が居眠りをしていました。「喝!座禅は須らく身心脱落なるべし。居眠りするとは何事か」バシーーーッ!!

師の如浄の喝を聞いていた道元は、ハッとなり、目の前が一気に開けた感覚がありました。道元は夜明けを待って如浄の方丈を訪ね、言います。

「身心脱落来る」

身も心も抜け落ちるということです。師の如浄も「身心脱落、脱落身心」そう言って道元が悟ったことを認めました。天童山を去るに当たって師の如浄は言いました。

「日本に戻ったら、人々に教えを広めなさい。衆生の救いのために、尽くすのだ。そのためには王や大臣といった権力に近づいてはならん。深山幽谷に身をひそめて、たった一人でも半人でもいいから、真の求道者を導きなさい。我が宗派を断絶させてはならん」

入宋してから5年目の安貞(あんてい)元年(1227年)道元は帰国し、なつかしの建仁寺に戻りました。道元は28歳になっていました。ここで道元は大いに禅の実践を説きます。

道元の説いた禅は「只管打坐(しかんたざ)」…ひたすら座る、ただ座るというものです。悟りを求めてとか、座ることによって救われようとか、目的意識さえ捨てて、ただ座る。座ること、そのものが悟りであり、救いであるという考えです。

建仁寺を訪れ弟子になる者もしだいに増えていきました。しだいに、建仁寺では足りなくなってきました。またそもそも建仁寺は天台宗・真言宗・禅宗の三宗兼学の道場という建前で建立された寺です。純粋な禅寺とはいえませんでした。

31歳の時、道元は建仁寺を出て、深草の安養院に入ります。「深山幽谷に身をひそめよ」という師・如浄の教えを今こそ実践する時でした。37歳の時、同じ深草に興聖寺(こうしょうじ)を開きます。弟子はどんどん増えていきました。道元は座禅修行の傍ら、著述活動に励みました。

この一日の身命は、たふとぶべき身命なり。(中略)一日をいたずらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重宝(ちょうほう)なり。(中略)一日百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたゝびうることなからん

『正法眼蔵』

興聖寺は道元入寂後はすたれましたが、江戸時代に宇治に再建され、現在に至ります。

一方、道元は禅宗以外の宗派を手厳しく批判しました。特に念仏や読経はただ口を動かしているだけで春の田でカエルが鳴いているようなものだ」とまで言いました。

批判は密教や、天台・真言・奈良の仏教あらゆる方面に向けられます。当然、激しい反撃を食らいます。特に延暦寺により道元を信じる一団は激しい弾圧を受けます。

「やれやれ。やはり都に近いとうるさくてかなわん。
深山幽谷にこもれというのは、本当だな」

寛元元年(1243年)44歳になった道元は深草を出て、越前志比庄(しひのしょう)に永平寺を建てて隠棲します。在家信徒の波多野義重が、自分の領土を提供してくれたのです。以後、禅の修行のかたわら、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の執筆に励みました。

越前までは叡山の攻撃もなく、落ち着いて執筆活動に専念できたようです。一方で道元は、偏屈にもなっていったようです。

深草にいた頃の道元は在家でも救われる・女性でも救われるという立場でした。しかし永平寺に入ってから、考えが変わります。

「やはり出家しないと救われるのは無理だ。
それに女が救われるなんて、とんでもない」

宝治元年(1247年)道元は執権北条時頼に招かれて鎌倉へ下ります。折しも鎌倉は宝治合戦によって有力御家人・三浦氏が滅ぼされた直後でした。執権北条時頼は、道元の教えにすっかり心酔します。

「道元殿、どうか鎌倉に留まり、鎌倉に寺院を建ててくだされ」

「それはできません。私の寺は草深い越前の永平寺…」

道元は時頼の誘いを断り、永平寺に戻りました。

「ならば永平寺に土地を寄進しよう」

しかし、道元にはそれも受けられないことでした。北条時頼の話を取り次いだ僧がこのことを喜々として言いふらすと、世俗に染まることを嫌う道元はとたんに不機嫌になり、

「その者を、追放してしまいなさい!」

件の取次の僧を追放し、僧が座禅していた床を切り取り、床下七尺まで掘り起こして、捨てさせました。徹底してますね。

建長5年(1253年)、道元は療養のため上洛した時に、病が悪化。入寂しました。享年54。栄西が俗世と関係を持ち、俗世と関わっていく中で禅宗を広めようとしたのに対し、道元はひたすら俗世に染まらず、孤高の道を歩き通しました。

次回「両統迭立 天皇家の分裂」に続きます。

解説:左大臣光永

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