法然と親鸞

ここからは少し通史の流れからそれて、鎌倉新仏教…浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、臨済宗、曹洞宗、時宗、それぞれの租師(開祖)の人生と、それぞれの宗派の特徴、違いなどを見ていきましょう。

「通史」の一環としてはやや詳しすぎる部分もあります。しかし、今日まで続いている日本仏教の各宗派は、ほとんど鎌倉時代に誕生しました。詳しく知っておくことで、鎌倉時代以降、現在までの歴史を学ぶ上で、必ず理解が深まり、「ああ。そういうことだったのか」と面白さが増すはずです。

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法然

浄土宗の祖、法然は長承2年(1133)、美作の押領使漆間時国の一人息子として生まれました。押領使とは地方の警察署長のような役職です。9歳の時、在地の武士明石定明の襲撃を受け、父漆間時国は殺されてしまいます。

「父上、この仇は必ずー」
「ならぬ。復讐をしてはならぬ。憎しみが憎しみを生むだけだ。
それよりも仏門に入って救いの道をもとめよ」

父の遺言より9歳で出家した法然は、13歳で比叡山に登り、天台の教学を学びます。しかし、当時の比叡山は堕落しきっていました。

僧たちは俗世以上の出世競争に明け暮れていました。また園城寺とたびたび武力抗争を繰り返し、強訴といって大勢で都に操り出し難題を朝廷につきつけたり…およそ仏教者にはあるまじき姿でした。

「私が求めいたものと、違う」

18歳の法然は比叡山の別所・黒谷に隠棲し、叡空の弟子となます。そして法然房源空と名乗りました。

以後、43歳まで法然はひたすら学問に打ちこみます。天台宗だけでなく、他のあらゆる宗派を学び「知恵第一の法然坊」と呼ばれるまでになりました。

しかし、どんなに学問を究めても、悟りを得ることはできませんでした。

そんな中、法然は唐の善導大師の「観経疏(かんぎょうしょ)」に導かれていき、その中の一節に目を留めます。

「一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を唱えることを、どんな時も時間の長い短いを問わず、心に留めてやめないことを、往生のための正しい行いと言うのだ」

「これだ!」

ただひたすら念仏する。それなら自分のような弱い人間にもできる。難しい学問・修行も必要ない。誰にでもできる。専修念仏の教えに、法然は至ったのです。

時に承安5年(1175年)春、法然43歳。この年をもって浄土宗の始まりとします。

法然は比叡山を下り、まず西山に、ついで東山吉水に庵を結び、専修念仏の教えを説きます。貧しい人、学問の無い人、身分の低い人も、南無阿弥陀仏と唱えれば救われる。

自分たちは地獄行きと諦めていた人々にとって、大きな朗報でした。法然のもとには身分の上下、男女の別を問わず多くの人々が集まり法然の教えを聞きます。

一方、天台宗や南都六宗といった既存仏教からの弾圧は激しくなっていきます。念仏を説くだけで救われる?ならば我々が必死に学問修行しているのは無意味と言うのか、けしからん。というわけです。

しかし法然は学問や修行を誰よりも重んじていました。重んじた上で、この末法の世においては、学問修行といった自力によって悟りを目指す「聖道門」ではなく、ただ念仏を唱えるという「浄土門」によってでないと、広く万人を救うことは間に合わない、と解いたのです。

文治2年(1186年)、洛北の大原に各宗派の碩学が集まり、法然の専修念仏の考えを聞きました。最初は法然に反発を持っていた者たちも、最後には涙を流し、ついに三日三晩にわたって皆で念仏を唱えることになりました。これを「大原問答」といいます。

それでも、既存仏教からの弾圧は続きました。建永2年(1207年)、後鳥羽上皇の寵愛していた姉妹が、法然の弟子、安楽・住蓮の教えに感化され、出家しました。後鳥羽上皇は激怒し、安楽、住蓮は処刑されました。

そして法然と親鸞も監督不足であるとして、法然は四国へ、親鸞は佐渡へ流されることとなりました。

4年後、法然は許され、京都に戻ってきますが、ほどなく病にかかり建暦2年(1212年)、現在の知恩院法然廟にあった庵で入寂しました。

浄土宗の一番の特徴は、念仏さえすれば救われる、「専修念仏」という「易行(いぎょう)」を説いたことです。その教えは法然の著書『選択本願念仏宗(せんちゃくほんがんねんぶつつしゅう)』に記されています。

それまでの仏教では難しい経文を読みこみ、厳しい修行をしなければ人は救われないとされていました。しかし、末法の世においてはそれでは救われない。末法の世においては、ただ念仏を唱えるという誰もができるやり方でなければならない。

法然は広く万人(衆生)を救うという大乗仏教本来の観点に、立ち返ったのでした。念仏さえすれば救われる、「専修念仏」の教えは弟子の親鸞に受け継がれていきます。

親鸞

親鸞は承安3年(1173年)藤原氏支流の日野有範(ひのありのり)の子として京都に生まれます。幼い頃両親と死別。9歳の時仏門に入ることになり比叡山に登ります。

「よし、まじめに勉強して、立派な僧になるぞ」

若い親鸞は張り切りました。しかし当時の比叡山は堕落しきっており、政治権力と結びついて永達を目指す者が多くありました。また強訴といって都に押し寄せ、無理難題を押し付けるなど、およそ仏教者というには、遠いありさまでした。

また親鸞自分自身、戒律も守れず、善行も行えず、煩悩に流されがちな自分を見出します。特に性欲の問題に、悩んだようです。

「どうして俺はこう、キレイな娘さんなんか想像すると、ムラムラが抑えらないんだろ。坊主として向いてないのかなあ…」そんなことも考えたかもしれません。

29歳の時、比叡山を下り、聖徳太子が建立したという京都の六角堂で百日間の参籠をします。95日目に、夢の中に聖徳太子の化身である救世観音があらわれ、告げます。

「たとえ修行者が前世の因縁によって女性と交わることがあっても、私が玉のような女性となって犯されよう。一生の間、その人を清らかに保ち、死ぬ時は極楽往生に導こう」

「はっ!」

これが「六角夢告(ろっかくむこく)」と呼ばれる出来事です。

目が覚めた親鸞は、比叡山に戻りませんでした。戒律によっては救われないことを悟りました。そして、専修念仏こそ末法において人を導く教えとして、法然上人の門をたたきます。

この頃法然は東山吉水に庵を結び、貴賤・男女を問わず、多くの人に専修念仏…念仏を唱えれば救われるという教えを説いていました。

「これだ!」

念仏を唱える。ただそれだけなら、煩悩に流されがちな自分にもできる。しかも、法然自身は一生独身でしたが、弟子が妻帯することは一切咎めませんでした。僧でありながら、妻を持つことさえできる!親鸞は感激します。雨の日も風の日も法然のもとに教えを乞いに通いました。

こうして親鸞は越後の豪族三条為成の娘・恵信尼(えしんに)を妻としました。

「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」…有名な『歎異抄』の言葉は、こうした体験から生まれたものと思われます。

しかし専修念仏の広まりは延暦寺や奈良の寺々の反発を招きました。建永2年(1207年)、法然の弟子安楽と住蓮の導きで後鳥羽上皇の寵愛する二人の女性が出家してしまうと、後鳥羽上皇は激怒し、安楽と住蓮を処刑します。

そして法然・親鸞も監督不足だということで、法然は四国へ。親鸞は越後に流されることとなりました。この事件を建永の法難といいます。

「われ非僧非俗なり」

親鸞は越後に流されるにあたって、自らをそう定義しました。僧でもなく、俗人でも無いと。また「愚禿(ぐとく)」(おろかな禿げ頭)と自らを称しました。

建暦元年(1211年)5年目に罪許されますが、親鸞は京都へは戻らず、東国へ向かいます。常陸国筑波山周辺で武士や農民といった「いし、かわら、つぶてのごとき」人々を仲間とし、彼らに念仏の教えを説きました。その布教活動は20年間に及びました。

京都に戻った時は63歳。流罪となってから28年が経っていました。それから亡くなるまで、ひたすら著述にいそしみ、関東に残してきた弟子たちには手紙で教えを行いました。入寂は弘長二年(1262年)享年90。

親鸞は、「念仏すれば救われる」という法然の考えをさらに深め、阿弥陀仏による絶対的な救済にすがる「絶対他力」の思想を築きました。

また、法然が「悪人でも往生できる」としたのに対し「悪人こそ往生できる」と強調した悪人正機説(あくにんしょうきせつ)は、ことに有名です。

次回「日蓮と一遍」に続きます。

解説:左大臣光永

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