北条貞時から北条高時へ

身内の不幸

正安3年(1301年)8月、北条貞時は出家し、崇暁(後、崇演)と名乗ります。永仁の徳政令の失敗に加え、娘たちが次々と若死にしたことが貞時に世をはかなむ心を起こさせていました。執権職は従弟で女婿の北条師時(もろとき)に譲りました。

「息子たちだけは…健康に育ってほしい」

しかし、出家までしての北条貞時の願いもむなしく、長男菊寿丸、次男金寿丸が相次いで夭折します。三男については不明ですが、おそらく同じように亡くなったのでしょう。そんな中、嘉元元年(1303年)四男成寿丸が誕生します。後の北条高時です。

「成寿丸…願いはお前だけだ」

北条貞時の期待と愛情は、生れたばかりの成寿丸に注がれます。

将軍交代

延慶元年(1308年)8月、北条貞時は、将軍久明親王を京都へ追放します。久明親王この時34歳です。久明親王は後深草院の皇子で鎌倉に将軍となるべく連れてこられ、今またこうして追放されるのでした。替わって久明親王の嫡男・8歳の守邦親王を九代将軍とします。この守邦親王が、鎌倉幕府最後の将軍です。

とはいえ、もはや誰が将軍になろうと大した変わりはなく、気にする者はありませんでした。

貞時から高時へ

この頃から北条貞時は政務に飽きてきたようです。毎日酒宴を開き、建長寺・円覚寺から禅僧を招いては贅沢三昧にふけりました。

「はあ…虚しい。男も、女も、次々と死んでいく…。
執権?得宗?そんなもの、子がいなくては、何もならないではないか…」

満たされない北条貞時の心。そんな中にも唯一生き残った四男成寿丸は最後の希望でした。

延慶2年(1309年)正月、成寿丸は元服して高時と名乗ります。

「よいか高時、長崎、安達の二人に何でも聞いて、自分勝手な判断をしないようにな」

「ははっ、父上」

現世に望みの乏しい北条貞時でしたが、わが子高時のために道を調えることは忘れていませんでした。長崎高綱と安達時顕の二名を抜擢し、高時の補佐を命じます。長崎高綱は高時の乳母夫で、後に出家して長崎円喜と名乗りました。

息子高時のために道を調えたことで安心したのか、北条貞時は応長元年(1311年)10月、息を引き取りました。享年41。墓は父時宗と同じく鎌倉円覚寺の佛日庵(ぶつにちあん)にあります。

鎌倉円覚寺佛日庵の開基廟
鎌倉円覚寺佛日庵の開基廟

死の間際、貞時は枕元に長崎円喜、安達時顕の両名を呼び、言いました。

「高時のこと、くれぐれもよろしく頼むぞ…」

北条高時 執権となる

北条貞時が死んだ時、息子の高時は9歳でした。さすがに若すぎるので、中継ぎの執権を立てます。まず北条宗宣が、ついで北条熙時(ひろとき)が、ついで北条基時が執権になり、それぞれ1年、3年、1年という短い期間で死にました。ついで正和5年(1316年)北条高時が14歳で執権に就任しました。連署は北条貞顕が務めます。

「執権といわれても、ぼくは何をしたらいいのかなあ~」

「すべては、我々が取り仕切りますので、ご安心を!!」

高時の下で実際に政務を行うのが、内管領(うちのかんれい)長崎円喜と安達時顕の両名です。もっとも長崎円喜は北条高時が執権に就任するとすぐに高齢を理由に引退し、息子の長崎高資に跡を継がせます。しかし、引退してから後も長崎円喜は政治の一線を下がらず、黒幕として幕府の政治をあやつり続けます。

かの「文保の和談」により、二つに分裂した天皇家の長きにわたる争いに一応の決着をつけたのも、長崎円喜の才覚でした。

次回「法然と親鸞」に続きます。

解説:左大臣光永

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