北条貞時の幕政改革と永仁の徳政令

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北条貞時の幕政改革

永仁元年(1293年)平禅門の乱で平頼綱は滅びました。そこで北条貞時は、

「他人である頼綱ごときに政治を任せたのが、
そもそもの間違いだったのだ。
政治は、執権が直接行うべし!」

若い理想に燃える北条貞時は精力的に幕政改革に取りかかります。

さっそく対策が立てられたのは、所領を失って無足人となっている御家人の救済でした。蒙古襲来以来、じゅうぶんな恩賞にありつけず、やむなく先祖伝来の土地を売り、御家人身分をはく奪され、落ちぶれている者が多かったのです。

これを救おうということです。そこで貞時は、三代前に御家人とされた者は、証書さえあれば土地がなくても御家人と認められることに取り決めました。

「やった。御家人に戻れるんだ」
「ようやく先祖に顔向けができる」

などと喜んだ者も多かったことでしょう。

また評定衆、引付衆、奉行などに収賄を禁じて綱紀粛正をはかりました。

次に裁判の迅速化をはかるため、これまでの引付に変わって、執奏(しっそう)を設置します。執奏には七名が命じられ、訴えはいちおうこの七名が受理した後、最終的にすべて執権貞時が汲み上げて裁くというものでした。

そもそも三代執権北条泰時の時代に評定衆が設置されて以来、裁判は複数の人間が意見を述べ合って決める合議制が建前でした。時頼、時宗と時代を下るにつれ北条得宗家の独裁がすすみ有名無実化していったものの、それでも建前としては合議制は残っていたのです。今や合議制は完全に排除され、得宗独裁という形となりました。これによって裁判は迅速化するかに見えました。しかし、すぐに無理が来ます。

日に日に複雑化し数も多くなる訴訟を貞時一人で裁ききれるものではありませんでした。やはりこれは無理だったと、2年後、引付を復活させます。しかしそれでも重要な裁判は依然として貞時自身が裁きました。

まさに貞時の独裁という状況でしたが、世間からはおおむね好評だったようです。

「今度の制度では、しっかり裁判してくれるらしいぞ!」
「平左衛門の時代は、ヤツの機嫌しだいだったからなあ。
それに比べたら、今度はずいぶんマシだよ」

そう言って、平頼綱の時代には出し渋っていた裁判の訴えを出す者が雲霞のごとくあふれたと伝えられます。

永仁の徳政令

貞時の政策に首尾一貫していたのは「御家人保護」の精神です。御家人保護。その線に添って、永仁5年(1297年)に出されたのが有名な永仁の徳政令です。

御家人は借金を返さなくていい。質流れした土地も取り戻せる。そんなバカな。じゃあもう金なんて貸しませんよ。ええっ!困る。こうして、かえって経済の混乱を招いた。こんなふうに学校では習ったんじゃないでしょうか?

しかし永仁の徳政令は借金帳消しという話だけでは、ないです。もともと何条あったのかは不明なのですが、現存している部分は三条あります。その内容は、

一つ。越訴(おっそ)の禁止。越訴とは裁判の結果に不服な場合、上告することです。それを、現在進行中のものを除き禁止しました。裁判の迅速化をはかった貞時の方針に沿ったものですが、一度の裁判で間違いが起こった場合、冤罪が起こった場合には、泣き寝入りとなりそうですね。

二つ目が所領の質入れや売買に関する規定です。いわく、所領の質入れや売却は御家人の困窮のもとであるから、今後は禁止する。以前御家人が売却した土地はもとの持ち主である御家人に返還する。

ただし、幕府からの下文(くだしぶみ)や下知状(げちじょう)を得ている場合と、売買や質入れが20年以上経過しているものは、御成敗式目の規定どおり時効であるから、取り返すことはできない。

ただしこれは買主が御家人の場合であって、買主が御家人以外の凡下の者の場合、20年以上経っていても取り戻すことができる。

ようは、御家人は借りた金は返さなくていいし、質入れしていた物も取り戻せるということです。幕府が「御家人」だけを人間と認め、商人や一般大衆(凡下の者)を人間と認めていないことがよくわかる条文です。こんなことやったら経済がメチャメチャになるのは目に見えています。

三つ目は利銭出挙(りぜにすいこ)について。今後、債権の取り立てについての訴訟は受け付けないというものです。言い換えれば、借金を返さない者がいても、債権者は裁判起こさず泣き寝入りしろ、ということです。

「じょ、冗談じゃない。これじゃ、金なんて貸せませんよ!!」

債権者が仰天したのは当然です。貸したものは返さなくてもいいという話ですから。これではもう貸せない。特に御家人に貸すのは一番危ない。以後、御家人に貸す者は激減しました。御家人を保護するための政策が、結果として御家人の首を絞めることになりました。

これはマズかったと反省してか、永仁の徳政令は一年ほどで実施打ち切りになりました。以後、鎌倉幕府は二度と徳政令を発することはありませんでした。

次回「北条貞時から北条高時へ」に続きます。

解説:左大臣光永

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