霜月騒動と平頼綱の恐怖政治

安達泰盛と平頼綱

弘安の役の3年後の弘安4年(1284年)執権北条時宗が34歳で死去しました。蒙古襲来という未曾有の国難に当たって、心労が過ぎたのでしょうか。発病して間もなくの急死でした。北鎌倉山ノ内の瑞鹿山円覚寺に葬られました。

代わって、時宗の息子の貞時が14歳で執権に就任します。14歳で政治を行うのは無理なので、貞時の叔父であり鎌倉を代表する有力御家人である安達泰盛が政治を取り仕切り、発言力を持つこととなります。


安達泰盛と平頼綱

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「いよいよワシの時代が来たか…」

安達泰盛は北条嫡流家とつながりを持つ一方、将軍家ともつながりがありました。宗尊親王・惟康親王という二代の将軍の側近となり、その宿所も将軍御所近くに構えていました。

また安達泰盛は京都風の文化に通じていました。この時代の将軍は親王将軍。すなわち京都からお迎えした将軍なので、うまくつきあうには文化的素養が不可欠だったのです。また安達泰盛は真言密教に深い造詣があり、高野山奥の院に卒塔婆を奉納したりしました。

さらに世尊時流の流れを汲む書家でもありました。そして兼好法師が『徒然草』の中で「さうなき馬乗りなり」と称えるほど馬術にすぐれた、文武両道の人物でした。

このように多彩な能力を持つ男・安達泰盛が、執権北条貞時の外戚として政治の表舞台に躍り出たわけです。

そしてもう一人、北条貞時の執権就任によって権勢を得た男がありました。


安達泰盛と平頼綱

平頼綱。貞時の乳母の夫であり、北条嫡流の代々の家臣「御内人(みうちびと)」です。北条氏の家臣のことを「御内人」といいます。これに対して将軍直参の御家人を「外様御家人」といいました。


御内人と外様御家人

「御内人」は本来、将軍の家臣である北条氏のそのまた家臣です。それに対し、将軍の直参は一段立場が上です。一段立場が上の者を「外様」と呼ぶのはとても奇妙な感じですが、この時代、もう将軍の直参より北条氏の家臣のほうがエライという感覚でした。

平頼綱は北条貞時の執権就任と同時に、内管領(うちのかんれい)に就任します。内管領とは御内人のうち、北条得宗家の家宰(家の仕事を主人にかわって代行するもの)に就任しました。

「今こそワシの天下よ…」

供に時の人を自認する安達泰盛と平頼綱。両者の対決は、いずれ避けられないものでした。

霜月騒動

安達泰盛も平頼綱も、執権北条貞時に権力の土台がありました。安達泰盛は貞時の母の兄。平頼綱は貞時の乳母の夫という立場です。安達泰盛と平頼綱は、若い執権北条貞時に取り入ろうと、さかんに相手の悪口を言います。

しかし、悪口合戦において一歩抜きんでたのは平頼綱でした。

「安達泰盛の息子の宗景(むねかげ)は、自分は右大将家の血を引いているなどと言って、源氏を称しています。これはあきらかに、幕府を乗っ取って、自分が将軍になろうとしているのです」

「なんじゃと…!それは聞き捨てならぬ!」

右大将家とは源頼朝のことです。

「どうすればよいのじゃ。私には何もわからぬぞ」
「ご安心ください。この頼綱が、安達一族の陰謀を、
食い止めてごらんに入れます」

弘安8年(1285年)11月17日、午後4時頃。

にわかに鎌倉中が騒然とします。

「謀反人、安達父子、覚悟ーーーーッ」

ずばっ、ずばぁぁ

「ぐはははあっ。おのれ、平頼綱…」

ばったり。

安達泰盛と嫡子宗景は平頼綱方に討たれます。

「殺せッ、殺せーーーッ、
少しでも疑いのある者は、容赦するなーーッ」

平頼綱の追及は、容赦がありませんでした。

「頼綱、もうよい。これでは鎌倉が、火の海になる」
「いいえ、敵は徹底して叩かねばなりません!」

執権北条貞時が止めるても、頼綱の勢いは止まりませんでした。
貞時は恐れをなして、鎌倉を脱出します。

事は鎌倉だけに留まりませんでした。

上野・武蔵では安達方と見られた五百人が討たれます。

「ま、待て!我等は何の関係も…」
「問答無用!!」

ざん。

ぎゃあああああ。

ドサクサまぎれに、安達泰盛とは何のつながりも無いのに討たれた者もありました。

九州の戦いは、特に凄惨でした。

安達泰盛の息子の盛宗(もりむね)は肥後国の守護として現地に赴任していましたが、

「謀反人の息子は、滅すべし」

ひゅんひゅんひゅんひゅん

ドスドスドスッ

ぐはあああっ。博多にて、さんざんに攻め立てられ、討たれました。

少弐景資(しようにかげすけ)は、安達盛宗の味方して挙兵しましたが、かねてから所領争いをしていた兄少弐経資(しょうにつねすけ)に攻められ、筑前岩門(いわと)城にて討たれました。これを岩戸合戦といいます。

安達盛宗も、盛宗に同心した少弐景資も、前の蒙古襲来において指揮官として功績を立てた人物でした。それがこんな形で討たれてしまって、何とも心痛いことでした。

その他、美作・播磨でも安達氏の親族が逃亡し、討たれています。これら一連の事件を、霜月騒動、もしくは弘安合戦といいます。

千代能の運命

霜月騒動のさ中、金沢流北条顕時は微妙な立場でした。

北条氏でありながら、安達泰盛の娘を妻として迎えていたのです。妻の名を千代能(ちよの)と言いました。


安達千代能

霜月騒動の騒ぎの中、捕えられた顕時は、下総に流されました。千代能は離縁され、円覚寺開山無学祖元のもと、出家し、如大禅師無着尼と名乗りました。

ある時、千代能が桶で水をすくうと、底が抜けて、ザバザッと水がこぼれてしまいます。

その時、千代能はぱあっと悩みが消え、心が晴れる感じがありました。

千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず

この時の「底脱の井(そこぬけのい)」は「鎌倉十井(かまくらじっせい)」の一つで、源氏山公園北方・海蔵寺の門前に残ります。

得宗権力の確立

安達氏が滅亡したことにより、北条嫡流家に対抗しうる有力御家人は、完全にいなくなりました。将軍直参の「外様御家人」の勢力は失われ、北条氏の家臣である「御内人(みうちびと)」が権力を握ることとなりました。

ここに、北条氏と有力御家人との長きにわたる武力抗争は終焉を迎えます。その歴史を振り返ってみましょう。

古くは頼朝没後まもなく、北条時政の陰謀により梶原景時が討たれ、次期将軍擁立をめぐって比企能員が討たれ、畠山重忠が討たれ、二代執権義時の時代に入り和田義盛が討たれ、五代執権北条時頼の時代には宝治合戦にて三浦氏が討たれ、そして九代執権貞時の時代に至り、最後の敵ともいえる安達氏が討たれたのです。もはや、北条嫡流家に対抗しうる有力御家人は無くなりました。以後、鎌倉幕府の滅亡まで、このような武力闘争は起こっていません。

平頼綱の専制

霜月騒動の後、実権を握ったのはもちろん平頼綱です。

「前の騒動では人を殺しすぎた。仏門に入って罪を掃うとしよう」

…という判断だったかどうかは、わかりませんが、頼綱は権力を掌握するとすぐに出家して平禅門(へいぜんもん)と呼ばれます。

城入道(安達泰盛)、誅せらるるの後、彼の仁(平頼綱)、一向に執政し、諸人、恐懼の外、他事なし

安達泰盛が滅ぼされてから、平頼綱がひたすら専制政治を行い、だれもがただ恐れる他のことはなかった。

一般に、平頼綱の時代は、このように恐ろしい恐怖政治だったと言われます。特に、北条氏の「御内人」を使って将軍直参の「外様御家人」の行動を厳しく監視させました。

しかし一般民衆にとってはどうだったのか?伝える資料はあまりありません。

頼綱の行ったことで特筆すべきことは、将軍を交代させたことです。

七代将軍惟康(これやす)親王(宗尊親王の子)は臣籍に降下し、源氏を名乗っていました。源氏の政権は滅んだといっても東国武士にとって結束の象徴だったのです。そのため源氏のブランドは大切だったのです。

ところが頼綱はもはや源氏などいらぬ、むしろ天皇家とのつながりを強めようという考えでした。そこで弘安10年(1287年))頼綱は、惟康親王をふたたび親王に戻す許可を朝廷に申請し、許されます。

さらに正応2年(1289)年9月、惟康(これやす)親王を京都に追放し、翌10月、後深草上皇の第六皇子久明親王を、八代将軍として鎌倉に迎えました。将軍の人事すら好き放題に操る男でした。

平禅門の乱

一方、北条貞時は、執権に就任した時は14歳でしたが、今や23歳。もはや平頼綱の言いなりの操り人形ではありませんでした。

「平頼綱の権勢は日に日に高まっている…これはまずい。
鎌倉の危機だ…」

なんとかせねば。その思いを高めていました。

永仁元年(1293年)4月21日深夜、事件は起こります。

平頼綱の嫡男宗綱が執権北条貞時に、密告します。

「父と弟の助宗(すけむね)が企んで、いずれ弟の助宗を将軍の位につけようとしています」
「なんじゃと?」

貞時は迅速に行動します。翌22日未明、武蔵七郎など北条一門の者を、平頼綱の経師ヶ谷(きょうじがやつ。材木座二丁目)邸に差し向けました。

ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、

どしゅっ、どしゅっ、どしゅっ

不意を突かれた平頼綱・助宗父子は、なすすべもありませんでした。

「おのれ北条貞時、誰のおかげで偉くなったと思っているのだ!!!無念…」

平頼綱父子は炎の中、自害して果てました。

「私は、父とは違うんだ、たた、助けてくれえ」

最初に密告してきた平宗綱は無実を訴えましたが、捕えられ、佐渡へ流されました。しかし後には許されて鎌倉に戻され、内管領(うちのかんれい)に就任しています。

平左衛門地獄

室町時代。義同周心(ぎどうしゅうしん)という禅僧が、かつて平頼綱の領地のあった熱海温泉を訪れました。その際、地元の僧から聞いた話が伝えられています。

いわく、熱海の平頼綱の別荘は、頼綱が討たれるた時にズブズブと地中に沈んでしまった。お、恐ろしい。平左衛門はいっぱい殺したからのう。地獄に落ちたのじゃ。そうじゃ、これは平左衛門地獄じゃ。人々はそんなふうに、言い合ったと。

そんな話が死後何十年経っても伝えられるほど、平頼綱の恐怖政治の記憶は根強いものがあったのです。

次回「北条貞時の幕政改革と永仁の徳政令」に続きます。

解説:左大臣光永

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