蒙古襲来(三) 弘安の役

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蒙古使を斬る

フビライは諦めていませんでした。文永の役の翌年の1275年3月、フビライはモンゴル人杜世忠(とせいちゅう)と漢人何文著(かぶんちょ)を使者として、ふたたび日本に送ります。

しかも今度の国書は、今までのようなおだやかな内容ではありませんでした。ハッキリと日本に服属を求めていました。

使者の一行は今度は対馬でなく長門の室津(山口県豊浦町)に上陸しました。

「ここが日本か…殺風景なところだなあ」

ところが、彼らを物陰からうかがう者がありました。

「間違いない。蒙古だ」
「蒙古が来たんだ」
「やっちまえ!!」

ワアアア

「なぬっ!!」

住民が襲いかかり、使者はたちまちなぶり殺しにされました。生き残った五人は大宰府に、ついで鎌倉に送られました。さて、執権北条時宗の判断は、

「斬れ!」

「それでは戦になります」

「われわれはけして屈しないという意思表示である」

「しかし…」

「斬れといったら斬れッ!!!」

仮にも外交使節の首をはねる。前代未聞の処置でした。反対する声も多かったはずですが、結局五人は竜ノ口(たつのくち。神奈川県藤沢市片瀬)にて斬られ、さらし首にされました。現在、神奈川県藤沢市常立寺(じょうりゅうじ)に「元使五人塚」が残ります。

甲斐の身延山(みのぶさん)に隠棲していた日蓮はこれを聞いて、

「悪いのは念仏僧・真言僧・禅僧であるのに、何の罪も無い蒙古の使いが斬られるとは、気の毒なことだ!」

そう語ったと伝えられます。

石築地の建造

同年3月、蒙古への守りとして博多湾沿岸に石築地の構築が命じられました。いわゆる元寇防塁です。

「運べーーーッ、その岩を、ここにーーっ」

「やっぱりまた、蒙古は来るのかなあ」
「ああおっかねえなあ…」

「そこ、ツベコベ言わずに働けーーッ」

などと言いながら作業をしたかもしれません。この石築地は現在も博多湾のあちこちに残っています。

南宋滅亡

1276年、フビライはついに南宋を滅ぼします。首都臨安は接収され、300年間におよぶ宋王朝の歴史は、ここに終りました。中国大陸は完全に元の支配下に入りました。

「もはや日本を気にする必要は無い!
日本攻撃のための、大船団を造営せよ!」

その命令は、降伏した南宋と、高麗に下されました。日本攻撃においては自国の負担は抑え、被征服民たる南宋・高麗に負担させる。それがフビライの方針でした。

最後の使者

フビライは宋の遺臣を使者に命じて日本へ遣わします。先の使者が斬られたことを、フビライはまだ知らなかったのでした。書状の内容は、もちろん降伏を迫るものでした。

「斬れ!!」

使者は鎌倉へ届くまでもなく、博多で斬られました。やや遅れて、先の使者・杜世忠が斬られたという情報が、高麗を経て元にもたらされます。

「外交使節を斬るとは。なんたる非礼。もう許せぬ!!」

もはや日本と元の関係は、完全に決裂。修復不可能となりました。フビライは高麗と旧・南宋に命じて大船団を建造させると、1281年正月、日本遠征軍の出発を命じました。

遠征軍は二手に分けて組織されました。

モンゴル軍・漢軍・高麗軍四万からなる、合浦を基地とする東路軍。
そして旧南宋の兵十万からなる、慶元(現・寧波)を基地とする江南軍。

江南軍の多くは鋤や鍬を持っていました。日本攻略のあかつきには、入植するつもりでした。

「もう俺たちには帰る場所が無いんだ。
こうなったらバンバン殺して、土地を奪って、
畑作って、いい暮らししようぜ」

「そうだとも。カッさらわれたものを、取り返すだけのことだ!」

東路軍

弘安4年(1281年)5月3日。元・高麗連合軍4万の東路軍は九百艘の船に分乗し合浦を出航。

21日。対馬上陸。次いで壱岐を通過。

6月6日、博多湾沖・志賀島に迫ります。迎え撃つ日本軍は、箱崎に布陣し、肥後国の守護代・安達盛宗が指揮に当たっていました。

弘安の役 志賀島の戦い
弘安の役 志賀島の戦い

「今度の戦こそ正念場だ」
「蒙古め、ブッ殺してやる!!」

日本軍は夜になると小舟で元の船に接近し、わあっと甲板に飛び上がると、ひるむ元の兵士をずばっ、ざんっ…と斬りまくります。

「日本軍は油断ならぬ。かくなる上は」

警戒した元軍は船と船を板で連結します。そして近づく小舟があれば、

びょう。ぼかーん
びょう。ぼかーーん

石弓で攻撃します。日本軍には甚大な被害が出ました。

志賀島の戦い

6月8日。元軍が志賀島に上陸。日本軍は海の中道からこれを攻めます。海の中道は志賀島と箱崎を結ぶ細長い砂州(さす0)です。現在は海の中道海浜公園(かいひんこうえん)があり観光地としてにぎわっています。

弘安の役 志賀島の戦い
弘安の役 志賀島の戦い

ばかかっばかかっばかかっ、キキン、カンカン…。キン。砂浜で斬り合う日本軍と元軍。ぐはっ。どたーー。ぐあっ。ぎゃああああ。この日の戦いは、日本が優勢でした。元の指揮官・洪茶丘(こうちゃきゅう)は傷を受け、馬を飛ばして逃げていきました。

「これでは博多への上陸は難しい。撤退ーーー」

元軍は博多への上陸を諦め、肥前鷹島に撤退していきました。

江南軍

一方、江南軍は慶元や舟山島(しゅざんとう)から、6月中旬から順次出航していました。

6月末。江南軍は平戸から五島列島にかけての海域に到着。一部は東路軍と合流して壱岐を襲撃しました。この壱岐の戦いの後、江南軍は平戸や五島列島に到着した東路軍と合流しました。ところが、両軍はなぜか、平戸のあたりで一か月もの間、グズグズします。

弘安の役
弘安の役

7月。両軍は肥前鷹島に移ります。合計4400艘、14万人の兵力で一気に博多に攻め寄せようという考えだったようです。

しかし、平戸で一カ月もぐずぐずしたことが命取りとなります。時は旧暦の閏七月。台風の季節です。

ゴオーーーーーー

強烈なのが、吹き荒れました。

ドガガーーン、どがががーーっ

ぎゃあーーー

ひいいーーー

元軍の船団は押し寄せる荒波に、打破られます。生き残った者は、命からがら本国に逃げ帰ります。またも、蒙古は撤退していったのです。

なぜ蒙古の船団は平戸でグズグズしたのか?理由はまったくわかりません。日本を威嚇し、沿岸から無言の圧力を加えることで、日本が自主的に降参してくることを狙っていたのかもしれません。

また14万人といってもモンゴル人、漢人、高麗人、南宋人の混成軍であり、内部で何かゴチャゴチャもめていたのかもしれません。今後の研究が待たれる所ですが、とにかく、元軍は一か月をムダに費やし、それが命取りとなりました。

元軍の船団は押し寄せる荒波に、打破られます。生き残った者は、命からがら本国に逃げ帰ります。

「天は我等に味方せり。鷹島に残った敵を、掃討せよ!」

ワアーーーッ

「ようやく手柄が立てられるぞーーッ!!」

少弐景資(しょうにかげすけ)の指揮のもと、日本軍は船に取り乗り、鷹島に攻め寄せます。弱り切った元軍はあそこに、ここに打破られ、生け捕りにされた者は数千人に及びました。

生け捕りといっても、外国人を生かしていても仕方ないと、捕えた人数だけ登録すると、博多の那珂川ほとりで全員、首を刎ねました。

戦後

ひとまず国難は去りました。しかし、

「いつまた蒙古が襲ってくるか、わからぬ。
警戒を怠るな!」

執権北条時宗の指揮の下、日本は弘安の役の後も警戒をゆるめませんでした。

一方

「十四万の元軍が、破られただと!」

報告を受けたフビライは、愕然とします。

「なんということだ。大変なことになった!
日本は報復をしかけてくるぞ。
警戒を怠るな!」

すぐさま高麗に守備兵を駐屯させ、大陸沿岸の守りも固めました。こうして日本と元は互いに相手を警戒し、以後、にらみ合いのような状況が10年以上続きます。

その間、フビライは何度か日本遠征計画を考えたようですが、そのたびに高麗や国内で反乱が起き、機会を逃します。

永仁2年(1294年)フビライが没すると、日本遠征計画は棚上げとなりました。しかしその後も日本は警戒を緩めず、鎌倉幕府が滅亡する頃までそれは続きます。日本と元の間に国交が結ばれることは、ついにありませんでした。

なぜ勝てたのか?

元軍はなぜ敗れたのか?日本はなぜ元軍を撃退できたのか?一番の理由は、元軍が、人種も考えもバラバラな混成部隊だったことに求められそうです。

遠征軍の中にはモンゴル人、漢人、高麗人、南宋人が含まれており、それぞれの利害が一致せず、よって士気も低く、統率が取れていませんでした。

こうした人的要因に比べれば、海を隔てているとか、嵐が吹いたという地理的・気候的条件は、さほど大きな問題にはならないと思います。

もちろん、日本軍が決死の覚悟で戦ったこと、文永の役の失敗にこりて、石塁を築くなど準備を怠らなかったことは大きな勝利の要因だったかもしれませんが…

敵の統率の無さとまったくの偶然である台風に助けられた部分も大きかったといえます。きわめて危うい勝利であり、歴史上、これほど参考にならない勝利も無いと思います。

北条時宗が18歳にして圧倒的なリーダーシップを発揮したわけでもなければ「神国」日本を守って神風が吹いたわけでもありません。

言うまでも無く日蓮が祈ったためでもありません。

(日蓮は、蒙古襲来という国難が起こったのは幕府が念仏や禅という邪教を信じるためだとして、蒙古によってこの国は一度滅ぼされるべきだと考えていました。ある意味蒙古襲来、大歓迎だったわけです)

二度の台風を「神風」として戦気高揚の材料にした戦前の教育などはナンセンスとしか言いようがありません。

あえてこの戦いに教訓を求めるなら、

「勝って兜の緒を締めよ」

ということでしょうか。

次回「霜月騒動と平頼綱の恐怖政治」に続きます。

解説:左大臣光永

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