北条時頼と得宗政治の始まり

引付衆と寄合

宝治合戦で最大の敵・三浦氏を亡ぼした北条時頼は、いよいよ北条一門の権力を強めていきます。以後、幕府の要職は北条一門の人々で抑えられることとなります。

それまで幕府の方針は「評定衆」と呼ばれる有力御家人からなる話し合いで決められていました。しかし北条時頼は「評定衆」を占める人事を刷新し、北条一門の割合を高くします。

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そして「評定衆」の下に裁判を専門に行う「引付衆」を設置し、裁判の迅速化をはかりましたが、その構成員も北条一門が多く指名されました。

さらに、「寄合(よりあい)」「深秘の沙汰(しんぴのさた)」という密室会議を行い、重要なことは北条得宗家と得宗家に親しい安達氏の意向によって、決めるようになりました。

これによって評定衆は有名無実化し、合議制は崩れました。北条得宗家による専制が強くなっていきます。

時頼はこのように北条得宗家の権威づけをしていったのです。逆に言えば、時頼の時代にはまだそれほど北条本家(得宗家)の権威が確立していなかったということもいえます。

名越流、極楽寺流など北条氏には分家が七つもあり、特に名越流などは自分たちこそ本家だという気持ちを強く持っていました。だからこそ、時頼は北条本家「得宗家」の権限を強める必要がありました。

北条庶家
北条庶家

ちなみに「得宗」とは二代執権北条義時の死後のおくり名である「徳宗」にゆらいすると言われます。義時→泰時→時頼と続く北条本家のことを「得宗」と言っています。

禅宗への傾倒

また時頼は、禅宗に強く傾倒していました。宝治(ほうじ)元年(1247年)頃、中国南宋の臨済宗の僧・蘭渓道隆を招きます。蘭渓道隆は京都の湧泉寺の来迎院や鎌倉の寿福寺などに住んでいましたが、時頼は蘭渓道隆に深く心酔します。あなたの禅は素晴らしいと。

これより前、時頼は曹洞宗の道元をも招いていました。道元から菩薩戒まで受けていましたが、時頼は以後曹洞宗から離れていきます。曹洞宗の教えは時頼には、どうもピンとこなかったようです。

ついに時頼は蘭渓道隆を大船郷の常楽寺(現神奈川県鎌倉市)の住持に任じました。

常楽寺に北条時頼が奉納した梵鐘は、建長寺、円覚寺のものと並び鎌倉三名鐘の一つに数えられています。

建長3年(1251)5月、小袋坂の地獄谷に建長寺が落成します。本尊は地蔵菩薩。開基は北条時頼。開山は蘭渓道隆。ここに至り幕府の宗教は臨済禅と決まりました。

建長寺は鎌倉五山第一に数えられ、中国の禅寺の様式に習い、伽藍をたて一直線に並べた配置に特徴があります。最澄建立の延暦寺、藤原良房命名による貞観寺などと並び、元号を寺号としていることも、珍しい特徴です。

宗尊親王の下向

また時頼は、将軍の人事まで意のままに決めてしまいます。建長4年(1252年)4月、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊(むねたか)親王を六代将軍として迎えました。時頼と重時の二名だけで内々に決められたものでした。

前将軍九条頼嗣は、京都に追い返されました。もはや北条得宗家の完全な独裁です。

「将軍といっても…余は何をすればよいのじゃ?」

「ご安心ください。すべては執権である私と、
北条一門が何とかしますので」

「ようは、お飾りというわけか…」

時に宗尊親王11歳。鎌倉幕府としては前々から望んでいた親王将軍が、ついに実現したわけですが…今や将軍といっても名ばかりでした。すべては、北条得宗家が決めてしまいました。

そして宗尊親王が成長するにつれて御家人たちの取り巻きができてくると、北条時頼はこれを危ないと見ました。文永3年(1266年)親王の正妻の宰子(さいし)が御持僧良基(りょうき)と密通事件を起こしたのをきっかけに、25歳の宗尊親王を京都に追い返しました。

もはや将軍に何の権限もありませんでした。北条得宗家の意向によって、首をすえたり、切ったり、自由にできる、単なるお飾りと成り果てました。

出家

建長7年(1255年)赤斑疹(あかもがさ)が流行します。今のはしかのようなものと考えられます。鎌倉でも京都でも多くの要人が赤斑疹にかかる中、執権北条時頼もかかってしまいました。その上、赤痢まで併発します。

「わしはもう長くない…長時、長時」
「はっ、長時はこれに」

北条時頼は、北条一門の極楽寺流長時を枕元に呼んで、言います。

「わしの死後は、そなたが執権職を継ぐのだ。しかし、
それはわが子時宗が成人するまでのこと。わかっておるな」

「ははっ…」

時頼は嫡子の時宗に執権職を継がせるつもりでいました。しかし嫡子時宗はまだ5歳。そこで中継ぎとして分家の長時に執権職を継がせることにしたのです。死を覚悟した時頼は最明寺(現北鎌倉の明月院)に入り髪をおろし、覚了房道崇(かくりょうぼうどうそう)と名乗りました。

ところが、その後思いがけないことが起こります。

得宗専制

赤斑疹の流行はアッサリ鎮まり、時頼も回復したのです。

「まだまだ死ぬな、という御仏のお告げであろうか」

そう思ったかどうか、時頼は以前にも増して勢力的に政治に関わるようになります。執権は分家の長時が就任しているのに、です。引退した時頼が、いわば上皇のように、政治を取り仕切るようになったのです。

その権限は、現役の執権である長時の権限を、はるかに上回っていました。

「やられた。執権など、…とうの昔に終わっていたのだ!」

執権北条長時は今こそ思い知りました。権力の本質は、もはや執権にはないのだと。得宗という立場にこそあるのだと。

今までは得宗である時頼自身が執権だったので本質が見えにくくなっていましたが、すでに権力の本質は執権であるかどうかには関係なく、得宗という立場にこそあるのでした。

執権の長時、連署の政村ごときは、北条の分家にすぎず、時頼の補佐役程度の存在にすぎないのでした。執権ではない時頼が、執権以上の権力をふるう。つまり、執権政治はとうの昔に終わっていたのです。

執権北条長時は今こそ思い知りました。

もはや権力の本質は執権には無く、得宗という立場にこそあるということを。北条時頼は宝治合戦以後、緻密に、注意深く、「得宗専制」という、この状況を築き上げてきたのでした。

そうです。かつて北条氏が執権という地位によって源氏の将軍家を空洞化していったように、今や得宗が、執権という地位を空洞化したのでした。しかも、誰も気づかないうちに。時頼の、見事な手腕といえました。

以後、時頼は死ぬまでの7年間、独占的に権力をふるい続けました。

小笠懸を披露

弘長元年(1261)4月。

将軍宗尊親王とその妻宰子(さいし)が、極楽寺流重時の館に滞在しました。北条時頼もいました。この時、御家人たちが将軍夫婦に笠懸を披露しました。

笠懸とは馬で走りながら鏑矢を放ち、さまざまな的を射るものです。

競技の後の談話の中で、将軍の側近たちがこういうことを言い出しました。

「何しろ難しいのは小笠懸です」

「ああ、あれは難しいですよ。
頼朝公の時代には、すぐれた名手が多かったと聞いてますがねえ…」

小笠懸とは笠懸の中でも特に的が小さく難しいものです。竹の先に立てた四寸(12センチ)四方の板を射るのです。

「今は…鎌倉に名手はいなくなってしまいました」
「なにしろ難しいですからなあ」

話を聴いていた北条時頼はつと立ち上がり将軍宗尊親王の前にかしこまり、言います。

「小笠懸の名手が鎌倉にいないですと?しかし、それこそ
我が嫡男太郎時宗の、もっとも得意とする所です。
すぐに呼び出して披露いたしましょう」

がやがや…がやがや…

湧きたつ御家人たち。

すぐさま小町大路の時宗の館(現宝戒寺)に使者が飛びます。

やがて到着した時宗はこの年11歳。わけを聞くと、

「わかりました」

こともなげに言って、馬にまたがり駆け出し、

ひょーーーっ

パーーーン

「おお!」
「わあっ!!」

見事に的を射ぬいて、居並ぶ御家人たちが沸き立つ中、こんなことは何でもないとばかりに後ろを振り返りもせず、将軍に挨拶もせず、パカカッ、パカカッと、立ち去りました。

「いやーーっ!さすがはご自慢の御嫡男」
「あっぱれな若武者ぶり!」

誰も彼も、わが子をほめそやす中、北条時頼は最高にいい気分で、

「太郎時宗こそ、わが家督を継ぐべき器だ」

そうつぶやいたと伝えられます。

北条時頼の最期

このように精力満々な感じの北条時頼でしたが、やはり誰にでも死は訪れます。

小笠懸披露から2年後の弘長3年(1263年)時頼は病に臥し、亡くなりました。享年37。北条氏内部においては得宗家の権威を高め、得宗専制制度の基盤を築くため、強引なやり方が目立ちました。

一方民衆や御家人に対してはその負担を減らす政策を行いました。祖父である三代執権泰時と並び、その善政は称えられています。

時頼が亡くなった時、嫡男時宗は12歳。12歳で執権就任というわけにもいかず、今まで通り執権は極楽寺流長時、連署は北条政村の体制が続きます。

もちろん時宗が成人して執権になるまでの、つなぎとしての体制でした。この状況。ふつうなら何か争いが起こりそうな所ですが、何事もなく平穏無事にいったのは、時頼のバランス感覚と人事手腕のたまものだったと言えるでしょう。

つづき「蒙古襲来(一) 蒙古の使者

解説:左大臣光永

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