宝治合戦

高まる緊張

1247年(宝治元年)。

前将軍九条頼経派と執権北条時頼派の対立は深まっていました。

「おのれ北条。将軍さまを追放するとは、なんたる思い上がり。もう許せん」

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反北条派の筆頭は、北条氏と肩をならべる鎌倉最大の豪族三浦氏。
一方、北条派の筆頭は、北条時頼の外戚であり有力御家人の安達氏です。

「おい、安達さまと三浦さまの間で戦だってよ」
「ええっ、鎌倉が戦場になるのかい」

人々は噂しあい、鎌倉には不穏な空気が走りました。この頃『吾妻鏡』には、不吉な記事が続きます。

頼朝の法華堂前の火事、冬の雷、羽蟻の群集、光る飛行物体。鶴岡八幡宮の神殿の扉の故障、由比ヶ浜で赤潮発生など。

合戦への不安が高まる中、出家して高野山で覚阿と名乗っていた安達景盛が鎌倉甘縄の安達本邸に戻り、執権北条時頼とたびたび面会を持ちます。

「今こそ三浦一族を打ちましょう。
ほっとくと、ロクなことになりません」

「ううむ…だが…事は慎重を要する」


三浦氏と安達氏

執権北条時頼はあくまで慎重でした。安達景盛は子の義景と孫の泰盛に言います。

「三浦一族は武勇をほこり、傍若無人のふるまいである。
このままでは我ら安達の子孫は三浦に遠く及ばないであろう。
こんな時にお前たちは何をしているのか。しっかり合戦の準備をしておけ」

「はあ…父上がそこまでおっしゃるなら」

そこで安達義景は愛染明王像を作り、三浦討伐の願かけをします。

不吉な前兆

5月6日。北条時頼は三浦泰村の次男駒石丸をみずからの養子とします。ここに至り時頼が三浦との関係を深めたのは、これにより三浦泰村に野心をしずめてもらい、合戦を未然に避けたいとの考えからでした。

5月13日。将軍頼嗣の妻で北条時頼の妹である檜皮姫が亡くなります。檜皮姫は将軍家と北条家を結ぶかすがいだったのですが、それが途絶えてしまったのです。時頼はこの日より妹の喪に服すため御所を下がり、三浦泰村の館に寄宿することにしました。

緊張の高まりつつある三浦泰村邸を寄宿先に選んだのは、お前を疑っていないとの意思を示すためだったと考えられます。時頼はあくまで合戦を回避したかったのです。

しかし、その後も不吉な出来事が続きます。

安達景盛の館に白旗があらわれたのを人々が目撃します。白旗は源氏の象徴なので、亡き頼朝が「三浦を討て」といっているようにも取れるのでした。

鶴岡八幡宮の鳥居の前に何者かによって立札が立てられました。その内容は、「三浦一族はおごりたかぶり幕府の命令に背いたので近日処罰されることになった。よくよく謹慎すべし」というものでした。安達一族の挑発と思われます。

また三浦氏と関係の深い武士が鶴岡八幡宮の神前に願書をささげてそのまま鎌倉を立ち去りました。その内容は「三浦一族の陰謀には加担できないので鎌倉を去ります」というものでした。

「ううむ…やはり三浦との戦いは避けられないのか」

5月27。

北条時頼は三浦邸にいましたが、三浦一族は朝から一人も時頼に挨拶に来ず、夜に入ると鎧や武器のがちゃがちゃいう音、弓のつるを張る音が聞こえてきました。

「ほうぼうから聞こえてくる三浦謀反の噂は本当だったのか。
私は信じていなかったのだが」

北条時頼は三浦邸をひそかに後にしました。

あわてた三浦泰村は北条時頼にわびを入れますが、すでに北条時頼の疑いは、たしかな形になっていました。

破局へ

しかし、北条時頼はすぐに合戦を行うことはなく、5月28日。三浦の一族や家臣たちの館をさぐらせます。すると、どの館でも武器を用意し、所領地の上総・阿波からしきりに甲冑が鎌倉へ運ばれている様子でした。

次に時頼は三浦邸に使者を送り、謀反の実否を問いただします。三浦泰村(やすむら)は否定しました。「世間ではどうこう言っていますが、私も弟の光村も正五位下という高い位にあり、一族の繁栄はじゅうぶんです。この上何を望みましょうや」と。

しかし使者の目は三浦の館で武器防具が準備されていることをとらえ、北条時頼に報告したので時頼は屋敷の防御を固めるよう命じました。

北条氏に近しい御家人たちを集め、屋敷の防御をものものしく固めます。

6月3日。三浦泰村の館に落書きした板が見つかります。「このごろ世間が騒がしいのは、三浦一族が討たれるからである。覚悟せよ」と書かれていました。

ドバカン

三浦泰村はこれを叩き壊し、北条時頼に書状を送ります。

「私のことで世間を騒がせているのは恐れ多いですが、私には野心はありません。世間が騒がしいので守りを固めていたのです。それが讒言のもとならば引き揚げます」

これに対して北条時頼の言葉は、

「そなたに対する噂を積極的に信じているわけではない」

という煮え切れないものでした。

「ああ…どうしよう。どうしよう。
戦になってしまうのか」

北条時頼が館を去ってから、三浦泰村はため息ばかりついていたと『吾妻鏡』は語ります。

開戦

6月4日。西御門の三浦泰村邸と、そこから南に数100メートルの北条時頼邸の間には、双方に味方する武士たちがあふれ、どちらがどちらか区別がつかないほどに、ごった返しました。


宝治合戦

翌5日になっても騒動が治まらないので、北条時頼は三浦邸に書状を送ります。「私は貴殿を討伐するつもりはない。友好関係を望む」と。

これで和平がなってしまえば、安達一族の立場が無くなります。「このまま和平が成立してしまえば、三浦はますます増長し、我ら安達氏は対抗できなくなろう。一気に攻撃をしかけるのだ」「わかりました父上」ドカカドカカドカカドカカと駆け出した安達の軍勢が三浦邸前でヒュン、ヒュン、ヒュンと矢を射かけます。

和平の使者が北条時頼邸から三浦泰村邸に向かっている途中でした。

「ああっ、待て。和平だ。三浦と戦ってはならん」

ワアーー、ワアーーー

攻め入っていく武士たちの勢いは、しかし止めることはできませんでした。

「ついに来たか。三浦の意地見せつけてくれん」

三浦一族もひゅんひゅんと矢を飛ばします。

「なに、合戦が始まってしまった。ああ…なんということだ」

北条時頼は悔やみますが、こうなってはどうしようもないです。
金沢実時に将軍頼嗣の御所を警護させ、弟の時定を大将軍に任じ、
三浦への攻撃を開始します。

「火を放てッ」

北条時頼方が三浦邸南の民家に火を放つと、折からの南風にあおらせて火はごおーーと三浦邸に襲いかかり煙をふきつけます。

「ひ、ひいいいーーっ」

たまりかねた三浦一族は、頼朝公の墓所である法華堂に逃げ込みます。

一方、永福寺(ようふくじ)に陣取っていた主戦派の三浦光村(泰村の弟)も、
どうせ死ぬなら頼朝公の墓前と法華堂に合流します。

やがて攻め寄せた時頼方と三刻にわたって激しい合戦となりますが、矢尽き刀折れ疲弊しきった三浦泰村以下三浦一族五百数十名は、頼朝公の絵像の前でいっせいに自害することとします。

三浦泰村の弟光村は、人に見分けがつかないように刃で自らの顔を削り、血が頼朝公の絵像にもかかりました。一方三浦泰村は落ち着いた感じで、一族の功績を振り返り、討伐される口惜しさを述べました。

「時頼も、いずれ思い合わせることがあるだろう。しかし、あの世に行く身で今さら時頼を恨むまい」と涙ながらに語り、一族五百数十名ともども自害したのでした。

これを宝治合戦、または三浦氏の乱と呼びます。

千葉氏の没落

上総の有力御家人千葉秀胤(ひでたね)は、三浦泰村の妹婿でした。北条時頼は同門の大須賀胤氏と東胤行(とうのたねゆき)に千葉秀胤討伐を命じます。6月7日、大須賀胤氏と東胤行は上総一宮の大柳館(おおやぎのたち)に千葉秀胤を攻撃し、自害に追い込みました。

幕府草創以来の有力御家人三浦氏、千葉氏はこうして滅ぼされます。以後、北条氏は房総半島にも進出。多くの所領地を得ることとなります。こうして北条得宗家の権力はいよいよ強まっていきました。

つづき「北条時頼と得宗政治の始まり

解説:左大臣光永

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