御成敗式目

評定衆が設置されて7年後の貞永元年(1232年)
51か条からなる御成敗式目(ごせいばいしきもく)が
北条泰時により制定されます。
または元号から貞永式目といいます。

鎌倉に持ち込まれる訴訟は、年々増えていました。
まず土地の争い。借金の問題。
相続の問題。殺人や強盗といった刑事事件。

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頼朝から実朝にかけて源氏三代の時代は、
将軍みずからの判断により一件一件、判決を下していました。

その際、判決の基準になる法体系があるわけでなく、
いわゆる大岡裁きだったと思われます。

それは頼朝のような能力のある為政者ならばいいのですが、
暗愚な為政者の場合はメチャクチャになる危険がありました。

それでなくても訴訟の量も増え、
内容も複雑化しており、
個人の裁量によって
一件一件裁判を行うというやり方には
無理がきていました。

個人の裁量ではない、何らかの基準が必要でした。

そこで北条泰時は、新しい法典を作ることを考え、
京都の法律家の意見をきいて日々勉強しました。

古来、日本には「律令」と呼ばれる法律がありました。

しかし「律令」は主に貴族を対象に書かれており、
よほど学問が無いと、読めませんでした。

公家のための法律である律令は、
無学な武士に読めるようなものではなかったのです。

武士の中にはまったく無学で、文字も読めない者もいたのです。
無学な者でも理解できる、やさしい言葉で法典を書く必要がありました。

ほかにも律令は、武士の現実にあわない部分がありました。

武士にとって一番大切なのは土地です。

土地をめぐって多くの争いは起こるのです。
土地を守るため、武士は命がけで戦うのです。

しかし、大化の改新以来整えられてきた律令では
「公地公民」が建前で、土地の個人所有を認めていません。

そのため律令は、そもそも土地をめぐっての
訴訟を想定しておらず、土地の争いに関する規定がほとんどありませんでした。

これでは土地を第一に考える武士には、
まるで役立ちません。

こうした点からも新しい武士のための法律が必要とされていました。

また、武士はそもそも血の気の多い戦闘集団であり、
問題が起こった時武力で解決しようとする傾向がありました。

ほんの些細な口論…たとえば祖先の武勇を比べあうといったことが、
いつの間にか一族を巻き込んだ合戦に発展してしまうのでした。

源平合戦の時代なら、そんな武士のエネルギーを
敵にぶつけさせることもできましたが、
日本全国がほぼ統一され、外敵がいなくなった今、
幕府としてはいちいち御家人どうし合戦をやってもらっては
困ります。

そこで、武力でなく、裁判によって
事を判決づける必要からも、法律の制定が強くもとめられていたのでした。

こうした必要性から貞永元年(1232年)制定されたのが、
51か条からなる御成敗式目です。

北条泰時は御成敗式目の完成にあたり、六波羅探題として京都にある
弟の重時に二通の手紙を送り、その中に書いています。以下、現代語訳です。

「多くの裁判で、同じような訴えでも強い者が勝ち弱い者が負ける不公平を無くし、 身分の上下に関係なく公平に裁判を行う基準として制定したのがこの式目である。

京都では物もわからぬ東えびす共が何を言うかと笑うかもしれないし、
裁判の基準としてはすでに立派な律令というものが存在していると反論する者があるかもしれない。

しかし田舎では律令の法に通じている者など万に一人もいない。こういう者が罪を犯したからといって律令にのっとって裁くのは、獣を罠にかけるようなものだ。

この『式目』は漢字も読めないこうした田舎武士のために作ったものである。 主人を貴び、親を敬い、曲がったことをただし、民が安心して暮らせるよう、 当たり前の「道理」によったものである」

京都の朝廷と公家法に対して言葉の上では謙遜しながらその実、
これが新しい時代の、現実に即した法典だと、
泰時の強い自信が感じられる文章です。

次の章「五代執権 北条時頼

解説:左大臣光永

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