和田合戦

泉親衡の乱

建暦3年(1213年)2月。

泉親衡(いずみちかひら)という者が謀反の企てを練っているということが、露見しました。その計画は、亡き頼家の遺児・千手丸を担ぎ出して将軍とし、将軍実朝と執権北条義時を倒そうというものでした。

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首謀者の一人が、同志を求めて阿静坊安念という僧に話を持ちかけたところ、持ち掛けられた僧には忠義の心があり、これを北条義時に垂れこんだことにより発覚しました。

「けしからん!」

報告を受けた北条義時は激怒します。次々と関係者を捕縛していきます。主要なメンバー130人、加担者200人という大規模な陰謀でした。

翌三月のはじめ、謀反の首謀者泉親衡が違橋(たがえばし。現鎌倉市雪の下三丁目。現在は暗渠になっている)に隠れているとの情報が入りました。

「それっ。泉親衡を捕えよ」

すぐに工藤十郎率いる軍勢が差し向けられます。「そこかっ、隠れておったな泉親衡」「くぬう。ばれたか。ならば仕方ない」

烈しい合戦となりますが、泉親衡は白刃きらめく刃の合間を切り抜け、ばかかっ、ばかかっと、いずこかへ逃げ去り、見つかりませんでした。

「おのれ…逃げ足の速いやつ!」

和田義盛の帰還

さて、この事件で捕えられた者の中に、有力御家人・和田義盛の二人の息子義直(よしなお)・義重(よししげ)と甥の胤長(たねなが)の姿がありました。和田義盛が所領地上総国伊北庄(いほうのしょう)に下っていた時の出来事でした。

「あのバカ息子どもが…やらかしおったわ!」

鎌倉につくと早々、和田義盛は将軍源実朝に面会を申し入れ、通されます。

「わかっておる。そなたの息子たちのことであろう」
「はっ。不肖の息子どもが、とんでもないことをしでかしました。
ここは、頼朝公旗揚げ以来の、それがしの忠勤をご考慮くださり、
なにとぞ寛大なご処置を」

「うむ、うむ、そうじゃのう。そなたはまこと、
源家につくしてくれた。息子たちのことは安心せよ。
されどそなたの甥の…何と申したか」

「胤長でございます」

「そうじゃ。その胤長だけは…どうにもならぬぞ。
胤長は反乱の首謀者として、よからぬ企みを指揮していたときく。
いや、我が許しても、義時がどう言うか…」

「そんな…!」

しかしその日は、とりあえず二人の息子の許しを得たまででよしとして、和田義盛は退出しました。

北条義時の挑発 一

翌日、ふたたび和田義盛は一族98人を引き連れて御所に参上し、御所の南の庭にズラリと並びます。

「鎌倉殿、なにとぞ胤長のこと、
寛大なご処置を」

政所別当大江広元が取り次ぎました。

北条義時は言います。

「胤長は反乱の首謀者ぞ。赦免など認められぬ。
すでに胤長の身柄は、二階堂行村の館で閉じ込めるよう、
きまっおる。これは鎌倉殿の御意思である。さあ、引き渡せ」

すると、後ろに手がまわった和田胤長が渡されていきました。

嘆き悲しむ和田一族の前でです。胤長は二階堂行村の手に渡されます。

「ああ…」
「おお…」

(おのれ北条義時…父の時政にもまさる陰湿さよ。
この屈辱、忘れぬ…)

ぎりぎりと唇をかみしめる和田義盛。

北条義時は「鎌倉殿の意思」と言っていますが、
この前日に実朝があっさり義直と義重を赦していることから、
実朝の意思などではなく、北条義時の挑発と考えられます。

北条義時の挑発 二

結局、胤長は陸奥に流され、胤長の屋敷は御所の東、荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)の前にありましたが、没収されてしまいました。荏柄天神社は大倉御所のすぐ東隣です。御所への参内に便利です。多くの御家人から、「私にください」と申し入れがあります。

荏柄天神社
荏柄天神社

しかし、和田義盛は実朝に訴えました。

「屋敷没収…とんでもない話です。頼朝公以来、一族の所領が没収された時は、親族に下されるものです。他人に賜ったという例をききません。どうか、胤長の館は、私に拝領させてください」

これには実朝も納得し、

「そうか、義盛の言うとおり」

そう言って屋敷を和田義盛に与えたので、義盛はひとまず安心し、代官をその館に住まわせました。

ところが、北条義時はここでも嫌がらせをします。

自分の代官を和田胤長の館に送りこみ、義盛の代官を追い出してしまったのでした。

「こんな理不尽があるものか!」

和田義盛の怒り心頭に発します。おのれ北条、もう許せぬと。

源実朝 和田義盛を問いただす

すでに鎌倉中には情報が漏れ、騒ぎとなっていました。

「和田義盛殿が謀反だって」
「鎌倉が戦場になるのか…」

事態を憂いた源実朝は、和田義盛の館に人を遣わし、問いただします。

「和田義盛は謀反をくわだてていると、もっぱらの噂である。軽挙妄動はつつしむべきである」

和田義盛の返事には、

「それがしは主君に何の恨みもございません。ただ、義時のふるまいが傍若無人なので、訴えようと、準備をしているところです」

日和見の三浦兄弟

その間、和田義盛は南武蔵の有力御家人横山時兼率いる横山党、同族の三浦義村、三浦胤義兄弟などを味方につけます。

三浦氏・和田氏 略系図
三浦氏・和田氏 略系図

中にも三浦義村は、

「誓って、義盛殿にご助力いたす。御所の北門から攻めましょう」

そう言って起請文までしたためました。
御所の北門といっているのは、三浦義村の館は御所の北西にあり、
北門まではすぐだったからです。
しかし、三浦兄弟はすぐに心変わりします。

「考えてみれば我ら三浦一族は、
八幡太郎義家公の時代から、源家にお仕えしてきたのだ。
累代の主君を討つなら、必ず神罰を免れないであろう。
ここは、北条殿に和田義盛謀反のことをお伝えするのが筋であろう」

こうして三浦兄弟は、北条義時の館へ赴き、報告します。

北条義時 動く

「和田義盛がそむきました」

その時北条義時は、囲碁の会を開いていましたが、特に驚く様子もなく

「左様か」

すっと座を立って、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を着て御所に向かいました。

その頃、政所別当大江広元も別ルートから和田義盛叛くの報を受け、御所へ向かっていました。

御所についた北条義時と大江広元は迅速に事を運び、北条政子と実朝の妻を鶴岡八幡宮に避難させます。

「さ、御台所さま、こちらへ」
「まことか、和田が背いたとは。畠山の時のように、誤解ではないのか」
「残念ながら…畠山の時とは違います。和田はすでに、兵を上げております」

御所襲撃 朝比奈義秀の奮戦

「君側の奸、北条義時死すべし」

どかか、どかか、どかか、どかかーー

和田義盛は150騎を三手に分け、大倉御所南門、小町上(鎌倉市雪の下の南から本覚寺夷堂橋付近)の北条義時邸、大江広元邸に、それぞれ押し寄せます。

義時は幕府へ行っていて義時邸を留守にしていましたが、留守をあずかる郎等たちはツワモノ揃いで、板をバリケードにしてその隙間から矢や石で守り戦いました。

「攻めこめーーー!!」

ドカカ、ドカカ、ドカカーー

和田義盛勢は、幕府南西の横大路に入り、ついに幕府の四面を取り囲み、旗をなびかせ矢をとばします。

中にも、和田義盛の三男・朝比奈義秀(あさひなよしひで)の活躍は目覚ましいものがありました。

朝比奈義秀 捕

朝比奈義秀は和田義盛の三男で、あの巴御膳を母に持つとも言われています。大変な力持ちとして知られます。

御存知のように、鎌倉は三方を山に囲まれた地形です。外からの攻撃には強いですが、交通が不便です。

「あーあ…このあたりに道があれば便利なんだがなあ」

「俺に任せろ!!!」

ドカン、ドカン、ドカン、ドカン

こうして一晩で、道を切り開きました。

朝夷奈切通です。

他にも材木座の海で素手でサメ三匹を捕まえたとか、メチャクチャな伝説が残る人物です。

ドカーーッ

惣門を破って御所の南の庭に乱入し、

お、おのれ御所に、謀反人どもが、
はっ、北条の犬どもが!!

ずばぁ、ズバァと並みいる御家人たちを切り払い、
切り払い、手下を引き連れて御所の奥になだれこむ
朝比奈義秀。

ゴオオオーーーー

「火、火が!鎌倉殿、こちらです」
「ああ…御所が燃える。御所が」

ひとまず将軍源実朝を火からお守りするため、
北条義時と大江広元が手を引いて、実朝を
頼朝公供養の法華堂にうつします。

ひゅん、ひゅん、ひゅん

キン、カカン、キーン

御所の中は大混戦となりました。中にも朝比奈義秀は
近づく者を斬り殺し、刺殺し、鬼神のごときはたらきで、
誰も近づくことさえできませんでした。

「朝比奈殿、貴殿の戦いぶり、まことに見事。
それがしは高井三郎重茂。この際弓矢を捨て、
組討ちにて決着をつけましょう」

「おう、心得た」

どかかっ、どかかっ、二頭の馬が並んで走っていたかと思うと、

「いざ、組まん」

どたーーっ、二人の武者が、からみあい、馬から落ちます。
上になり、下になり、戦いますが、朝比奈義秀が振り上げた太刀に
ずばっ。ぎゃああ。高井重茂は討たれてしまいます。

しかし、朝比奈義秀を馬から落としたのはこの者だけ。
ほめない者はありませんでした。

馬から落ちた朝比奈義秀に、わあーー次々と鎌倉方の
武士たちが攻め寄せますが、

ずばぁ。ぎゃあ。ずぶっ。ぎひぃ

朝比奈義秀は次々と鎌倉方を討ち取っていきます。

朝比奈義秀の豪快な戦いぶりは、後年、朝比奈伝説となり、
能や、芸能の世界で語り継がれることとなります。

而(しか)るに 朝夷名(あさいな)三郎義秀(よしひで) 惣門(そうもん)を敗り、南庭(なんてい)に乱入し、篭(こも)る所之(の)御家人等(ごけにんら)を攻撃す。剩(あまつさ)へ 火を御所に縱(はな)ちて、郭内(かくない)、室屋(しつおく)、一宇(いちう)殘(のこ)らず燒亡(しょうぼう)す。

之(これ)に依(より)て、將軍家(しょうぐんけ。実朝)右大將家(うだいしょうけ。北条義時)法花堂(ほけどう)に入り御(たも)う。火災を遁(のが)れ御(たも)ふ可之故也(べしのゆえなり)。

相州(そうしゅう)、大官(だいかん)御共(おんとも)に候被令(そーらわれせし)む。此(こ)の間、挑み戰(たたこ)うに及び、鳴鏑(なりかぶら)相和(あいわョする。利劔(りけん)刄(やいば)を曜(かがやか)す。

就中(なかんずく)に義秀(よしひで)猛威を振い、壯力(そうりき)を彰(あらわ)すは、既に以て神の如し。彼于(かに)敵する之(の)軍士等(ぐんしら)死を免るは無し。所謂(いわゆる)、五十嵐小豊次(いがらしのことよじ)、 葛貫三郎盛重(くずぬきのさぶろうしげもり)、 

新野左近將監景直(しんやのさこんじょうげんかげなお)、 礼羽蓮乘(れいはれんじょう)以下の數輩(すうやから)害被る。其の中(うち)、高井三郎兵衛尉重茂(たかいさぶろうびょうえしげもち) 〔和田二郎義茂が子。義盛の甥也〕義秀与(よしひでと)攻め戰う。互に弓を弃(す)て轡(くつわ)を並べ、雌雄を决さんと欲す。兩人(りょうじん)取合い、共に以て落馬し、遂に重茂(しげもち)討被訖(うたれおわんぬ)。

義秀(よしひで)を取り落せる之(の)者は、此(こ)の一人爲之上(ひとりたるのうえ)、一族之謀曲(いちぞくのぼうきょく)に与不(くみせず)、獨(ひと)り御所に參り命を殞(おと)す也。人以て感歎(かんたん)不(せざる)は莫(な)し。

『吾妻鏡』建暦三年(1213)五月小二日壬寅

鎌倉方と、和田義盛方。

双方、死力をつくして戦ううちに日が落ちて星が出てきますが、
それでも、決着はつきません。

「ウオーーーーッ」

鬼神のごとき戦いの朝比奈義秀。

「守りを固めよ。朝比奈を相手にするな」

北条義時の息子・北条泰時は、冷静な采配をふるいます。

和田義盛勢はさすがに矢種も尽き、人馬も疲れ果てていました。

「退けっ、退けーーーっ」

じょじょに撤退をはじめる和田義盛。

「それっ、追撃せよ」

ここぞと押す鎌倉方。

由比ヶ浜の戦い

和田義盛勢はしだいに押され、戦線は南へ移り、ついに由比ヶ浜に至ります

午前4時。

小雨降りしきる中、横山時兼率いる横山党が腰越に到着します。鎌倉に近づき、はるかに由比ヶ浜をのぞむと、すでに激しい合戦が行われていました。

「ぐぬぬ。すでに始まっていたか。いざ」

ばっと、横山党一同、その場に蓑笠を脱ぎ捨てて、

「われら横山党、和田義盛殿に
加勢いたーーーーーす!」

どかかっ、どかかっ、どかかーーっ、

「おおっ!横山時兼殿」
「味方だ!」 「これで巻き返せる!」

がぜん勢いを取り戻す和田義盛勢。

午前8時。曾我・中村・二宮・河村の武士たちが雲霞のように集まり騒ぎ、それぞれ武蔵大路と稲村ケ崎の辺りに陣取りました。

幕府方はあせります。

「あれは味方か?敵か?」

そこで大江広元は将軍源実朝の御教書(将軍の花押のある書状)を持たせ、浜辺の武士たちに示すと、武士たちは、いっせいに鎌倉方に従いました。

「それっ、謀反人を討ち取れーーっ」

由比ヶ浜で乱戦となります。

しかし和田勢もしぶとく、ふたたび御所に攻め寄せる勢いでしたが、小町大路にも、名越にも、大倉にも鎌倉方が守りを固め、付け入るスキはありませんでした。

そこで由比ヶ浜と若宮大路で激しい合戦となります。

ここで、またも、朝比奈義秀の奮戦。

しかし、昨晩から昼に至るまで合戦が続き、兵士たちは疲れ果てていました。和田義盛勢はしだいに数を減らしていきます。

和田義盛の最期

午後6時。

和田義盛の息子・四郎義直が鎌倉方に打ち取られます。

「ああ義直。長年可愛がって来てお前の出世を願っていた。今は戦う意味も無い」

そう言って義盛は力を失い、あちこちを駆け巡った末、鎌倉方に討ち取られました。享年67。息子たちも討ち取られました。朝比奈義秀は、船に乗って安房国に逃れました。

戦後

片瀬川の川原に和田義盛はじめ和田一族の首を晒しました。その数234にのぼりました。

丸二日間戦われた和田合戦は、こうして終わりました。この事件により和田一族はほぼ全滅しました。

北条義時は、それまで和田義盛がついていた侍所別当に就任し、政所別当と侍所別当を兼ねることとなりした。これにより執権体制はいよいよ強められていきます。

鎌倉の江ノ電和田塚駅の側には和田一族の墓があり、俗に和田塚と呼ばれています。明治25年の調査で多数の人骨が発掘されました。和田合戦の時の戦死者と思われます。

江ノ電和田塚駅江ノ電和田塚駅

和田塚和田塚

次の章「源実朝と『金槐和歌集』

解説:左大臣光永

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