源実朝と鴨長明

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建暦元年(1211年)、後鳥羽上皇のもとで和歌所寄人をつとめていた鴨長明が、同じく和歌所寄人であった飛鳥井雅経の推挙を受け、鎌倉へ下向します。

飛鳥井雅経は蹴鞠の名手としても歌人としても知られ、百人一首にも歌が採られています。鴨長明の文学の才能を高く評価しており、飛鳥井雅経から見れば鴨長明はずっと身分は低いのですが、身分の差を越えた友情を感じていたようです。

「長明殿、鎌倉殿はたいそう和歌好きな方です。
長明殿が顔を出せば、きっとお喜びになるでしょう。
一つ、和歌の話でもしてあげたら」

「へへ、へ…私なんかが、将軍さまに、大丈夫ですかね?」

鎌倉で、長明は将軍実朝に会うこと数度に及びました。

しかし…具体的にどんな会見内容だったか、『吾妻鏡』には具体的なことは何も記されていません。

鴨長明が鎌倉滞在中、その日は亡き頼朝公の月並みの命日だということで、頼朝公をまつる鶴岡八幡宮法華堂で、念仏読経を行いました。

「南無南無南無…
うっ…ううっ、うう…」

「長明殿、長明殿、いかがなされた」

「あ…いや、ちょっと私、すみません」

列を離れた長明は、柱に一首の歌を書きつけました。

草も木も 靡(なび)きし秋の 霜消て
空(むなし)き苔を 払う山風

もちろん鴨長明は直接頼朝に面識があるわけではありません。長明にとって頼朝は雲の上の人物です。ただ、長明が生まれたのは久寿二年(1155年)年。その翌年に保元の乱が起こり、時代は武士の世に突入しました。

それから平家の繁栄。木曽義仲の都入りを経て、頼朝が平家を滅ぼし奥州藤原氏を亡ぼし都入りした時、鴨長明は30代。下賀茂神社の跡取りとして何不自由ない暮らしを送っていました。しかし同族の争いで下賀茂神社を追われ、まず鴨川の近くに、そして50歳すぎて京都郊外の日野に隠棲しました。

源頼朝という人物を思う時、長明は、自分の生きた平安末から鎌倉初期という激動の時代を思い、自分自身の波乱の生涯をも重ね合わせて、涙を流したのかもしれません。

この翌年の建暦2年(1212年)鴨長明は『方丈記』を完成させます。

太宰治は、小説『右大臣実朝』の中で、実朝の付き人の立場から実朝と鴨長明の会見を描いています。もちろん太宰治の想像なのですが、こんなふうだっかと思わせるものがあります。

その日、入道さまは、参議雅経さまの御案内で、御ところへまゐり将軍家へ御挨拶をなさいまして、それからすぐに御酒宴がひらかれましたが、入道さまは、ただ、きよとんとなされて、将軍家からのお盃にも、ちよつと口をおつけになつただけで、お盃を下にさし置き、さうしてやつぱり、きよとんとして、あらぬ方を見廻したりなどして居られます。あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舎ぢいさんで、お顔色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お歯も抜け落ちてしまつてゐる御様子で、さうして御態度はどこやら軽々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。さうしてまた将軍家に於いても、どこやら緊張した御鄭重のおもてなし振りで、
チト、都ノ話デモ
 と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも対するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、
「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお声で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。

■入道…鴨長明。 ■参議雅経…飛鳥井雅経。 ■将軍家…源実朝。 ■仙洞御所…後鳥羽上皇。

『右大臣実朝』太宰治

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解説:左大臣光永

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