宇都宮頼綱の出家

■解説音声を一括ダウンロード
■【古典・歴史】メールマガジン
■【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル

謀反の噂

牧の方事件の余韻もいまださめない1205年8月7日。

有力御家人宇都宮頼綱に謀反の噂が立ちました。

「まことでしょうか。今度は頼綱が謀反とは」
「ええい、物騒な世の中ですな」

北条義時、大江広元、安達景盛が北条政子の館に集まり、
対策を話します。

「とにかく、叛いているならさっさと討ちましょう。
同族の小山朝政にやらせればよい」

「ははっ」

すぐに大江広元は御家人小山朝政(おやまともまさ)を召し出し、
言います。

「お前の先祖藤原秀衡が平将門を亡ぼし、
その恩賞に下野国を下されて以来、その職務は
いまだ中断していない。その、お前の国である下野で、
宇都宮頼綱がよからぬくわだてを練っているという。
攻めほろぼせ」

「お断ります。私は頼綱とは親類のよしみです。
親類を討つなど考えられません。他の者にお命じください。
ただし本当に頼綱が背いているなら、私は反逆には与しませんので、
これを防いで戦います」

すぐに小山朝政は、宇都宮頼綱に使者を立てます。

「お前、謀反を疑われているぞ。
はやく弁明したほうがいいぞ」と。

出家

8月11日。

宇都宮頼綱から北条義時に書状が届きます。

「私はそむいてなど、いません。謀反など何かの間違いです」

北条義時はすぐに大江広元らと評議します。

「さてどうしたものか」
「とりあえず無視してみましょう」

宇都宮頼綱は、所領地下野にあって、郎等たちを集めて言いました。

「北条義時は私に謀反の疑いありと見ている」

「そんな!御屋形さまが謀反なんて」

「もちろん、考えられない話だ。
だがお前たちも知っているであろう。
北条一族のやり方を。梶原景時時や比企能員殿、
畠山重忠殿も、謀反の疑いで滅ぼされたのだ。
北条は、われらを亡ぼす口実がほしいのだ」

「ではいっそ、ほんとうに謀反しますか」

「いや、俺は出家することにした」

「は、御出家でございますか!」

「お前たちも、つきあえ」

こうして一族60名あまりまるまる頭をまるめ、
頼綱は宇都宮蓮生と名乗ります。

義時 頼綱の訴えを無視する

8月17日。

頼綱は宇都宮をたって19日に鎌倉に到着します。
誓って身にいつわりなきことを、北条義時に訴えることが目的でした。

「なに!頼綱が来た?」

「すでに御出家されていおります」

「なに出家だと。ふん。
そんなわざとらしい真似をしても、
わしは会わんぞ」

取次の御家人結城朝光が、宇都宮頼綱に言います。

「頼綱殿…北条殿はそうとうご立腹のようです。
どうしても会わないとおっしゃっています」

「左様ですか。ならば仕方ない。
これを…」

取り出したものは、切り取った髻でした。

「これを、誓って二心なき証拠として、
鎌倉殿にお届けしてください」

「ははっ…これは、なんとも、
必ずや、鎌倉殿にお届けいたします」

北条義時はそれ以上宇都宮頼綱を追及しませんでした。

仏弟子となる

宇都宮頼綱は、つくづく人生がイヤになりました。

(あ~あ、まじめにやってても、
北条の奴らに謀反だ、なんていって
目つけられたら終わりだもんな
空しいものだ)

はじめは形だけの出家だったかもしれませんが、
ついに頼綱は本当に仏の弟子となります。

京都で法然上人の弟子証空に師事し、
嵯峨野の小倉山のふもとに山荘を築いて住まいました。

和田合戦の翌年(1214年)までには鎌倉から許され、政界に復帰。
承久の乱(1221年)では鎌倉留守居をつとめ、その功績により
伊予国の守護に任じられています。

藤原定家との交流

晩年の蓮生は、京都嵯峨野の小倉山の邸宅で悠々自適の暮らしを
送っていました。

近くには歌人として名高い藤原定家の邸宅があり、
蓮生と定家は歌仲間としてたびたび遊んでいました。
その上蓮生は娘を定家の息子為家に嫁がせており、
蓮生と定家は親類同士の関係でもありました。

宇都宮頼綱(蓮生)と藤原定家
宇都宮頼綱(蓮生)と藤原定家

時に1235年。

源氏の血筋はとうの昔に絶え、
鎌倉幕府の実質的な指導者であった北条政子も亡くなり、
その北条氏も三代目の
北条泰時の時代になっていました。

この年蓮生63歳。定家73歳です。

ある日、蓮生が定家に相談します。

「うちの別荘があまりに殺風景です。
たとえばこの襖に貼ってかざる字など書いてくれませんか」
「いやあ私は字が下手なんですが…でもまあ、何か書いてみましょう」
百人一首の成立

蓮生の依頼を受けた定家は万葉の時代から鎌倉時代までの
一人一首ずつ集めた和歌のベスト版のようなものをつくり、
色紙に書いて襖の飾りとしました。

昭和26年に発見された「百人秀歌」が、
定家の選んだ、この最初のベスト盤で、「百人一首」の
原型となったと言われています。

つづき 源実朝と鴨長明

解説:左大臣光永

■解説音声を一括ダウンロードする
■【古典・歴史】メールマガジン
【古典・歴史】YOUTUBEチャンネル