畠山重忠の変と牧の方事件

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北条氏が鎌倉の主として君臨するまで、血で血を洗う権力争いが続きました。北条氏は反対勢力を次々と粛清し、失脚させ、北条氏の権力拡大をはかります。

そんな中、三代将軍源実朝の時代。北条氏の標的となったのが、知勇兼備の坂東武者の鏡といわれた、畠山重忠です。

畠山重忠 その人物

畠山重忠は武蔵国男衾郡畠山の豪族で、頼朝の旗揚げの時は平家方に属していました。相模の三浦一族が三浦半島の衣笠城にたてこもって抵抗した時に、平家方としてこれを攻め、三浦の長老・三浦義明(みうらよしあき)を自害に追いやっています。

しかし、その後、頼朝が房総半島の豪族たちを従え鎌倉に北上すると、降伏して、頼朝に罪許され、以後は源氏方となりました。

畠山重忠は源平合戦でも、奥州合戦でも功績を立てます。一の谷の合戦の時、源義経の配下にあって、鵯越えの逆落としの際、自分の馬「三日月」を、足を傷つけるのがしのびないと、背負って崖を駆け下りた話が有名です。

畠山は赤威(あかおどし)の鎧に護田鳥毛(うすびょう)の矢負ひ、三日月といふ栗毛馬(くりげうま)の太く逞しきに乗りたりけり。この馬、鞭打(むちうち)に三日の月程なる月影のありければ名を得たり。

(中略)

畠山は、「この岩石に馬損じては不便(ふびん)なり、日頃は汝に懸りき、今日は汝を孚(はぐく)まん」と言ひける。情深しと覚えたり。

その後三千余騎、手綱かひ繰り、鐙(あぶみ)踏張(ふんば)り、手をにぎり、目を塞ぎ、馬に任せ、人に随(したが)ひて、劣らじ、劣らじと落しけるに、然るべき八幡大菩薩の御計(おんぱか)らひにやと申しながら、馬も人も損ぜざりけるこそ不思議なれ。

『源平盛衰記』より

知勇兼備の坂東武者の鑑といわれ、頼朝の信頼も厚かったのですが、頼朝没後は北条氏との対立を深めていきました。

畠山と平賀の争い

北条時政が執権に就任した頃。

武蔵国では有力御家人である畠山重忠と平賀朝雅が争いあっていました。この争いについて、北条時政の後妻である牧の方は、だんぜん平賀朝雅を支持していました。

「あなた、畠山などに味方してはなりませんよ」
「ああ、もちろん畠山より平賀殿だ」

時政は、後妻の牧の方を溺愛していました。時政と牧の方の間には政範(まさのり)という男児と、もう一人女子が生まれていました。この女子の婿が、平賀朝雅です。だから牧の方は、だんぜん、平賀朝雅を支持していました。

一方、畠山重忠は北条時政と先妻との間に生まれた娘の婿です。だから牧の方は、畠山重忠を、だんぜん支持していませんでした。

つまり、畠山 対 平賀の争いは、北条時政の先妻派 対 後妻派という図式になります。

畠山重忠と平賀朝雅
畠山重忠と平賀朝雅

讒言

元久2年(1205年)6月21日。

平賀朝雅は牧の方に相談します。

「昨年の暮れのことです。畠山重忠の六男重保が、私をひどく侮辱しました。あんなことは、許せません」

「なんじゃと、畠山が」

牧の方は「畠山」と聞いただけでムカッとします。

まず、牧の方が夫北条時政に言います。

「畠山に謀反の疑いありです」

「うむ。畠山は悪いと、前々から思っていたのだ」

北条義時の立場

そこで北条時政は二人の息子義時と時房を呼び寄せ、言います。

「畠山重忠に謀反の疑いあり。討つべし」

「なっ…」
「父上、それは!」

北条義時・時房は、北条時政の先妻の子です。いわば畠山重忠とは義兄弟ともいえる間柄です。義兄弟ともいえる畠山を討つなど、考えられない話です。

畠山重忠と平賀朝雅
畠山重忠と平賀朝雅

そこで二人は父時政に言います。

「畠山重忠は頼朝公旗揚げ以来、忠義を尽くしてきました。なので頼朝公は、わが子孫を護れと、畠山殿にありがたい言葉を下されたのです。軽々しく処罰すれば後悔するでしょう。事の真偽を確かめてからでも、遅くありません」

「ううん…」

時政は一言も言わず退出し、義時も退出しましたが、すぐに義時の館に時政の後妻・牧の方の使者が訪れ、牧の方の意思を伝えます。

「重忠謀反のことは、すでに発覚している。たしかな証拠のある話じゃ。それを何じゃ?よく確かめてからなどと。まるで私が畠山を陥れようとしている、とでもいいたげじゃのう。継母である私が、それほど憎いか」

「そんなことは…わかりました。そこまでおっしゃるなら、従います」

畠山重保 謀殺

北条時政は榛谷(はりがや)重朝・稲毛重成らと語らい、畠山を陥れる作戦を練ります。まず畠山重忠の息子・重保をおびき出します。

「由比ヶ浜で、謀反人を討ち取るという話じゃ。
重保殿も、急がれよ」

「なんと、そのような話きいておりませんでしたが…」

不審に思いながら重保が若宮大路から由比ヶ浜にばかかっ、ばかかっと
馬を飛ばすと、

由比ヶ浜には謀反人らしきものはいません。

「いったい…謀反人とは誰のことだ」

そこへ、ずらららっと軍馬の群が取り囲みます。

「謀反人畠山重保、覚悟」
「な!そなた、三浦義村。何のマネだ」
「祖父義明の敵、覚悟」

かん、キキン、カン、キン、
ずばっ。ぐっはああ。

ばったあー。

畠山重保は、砂浜の上に身を倒し、
息絶えました。享年は不明です。

御家人たちの多くは畠山攻めに積極的ではありませんでしたが、その中に三浦義村だけは乗り気でした。畠山と三浦の間には、頼朝公旗揚げ以来の確執があったのです。

三浦党の党首・三浦義明は、当時平家方についていた畠山重忠にせめられ、三浦半島の衣笠城で討死しています。その義明の孫が、三浦義村です。三浦義村にとっては、畠山重忠は祖父の敵です。

そのため、重忠の息子重保をおびき寄せ、畠山攻めのさきがけとなることに、大いに乗り気でした。

畠山の出撃

「なにっ、重保が討たれた!」

畠山重忠はこれに先立つ6月19日、鎌倉で騒ぎがあると聞き、本拠地の菅谷館(すがややかた。埼玉県比企郡嵐山町)を出発していましたが、その畠山の陣営に、六男の重保が討たれ、さらに鎌倉方は大挙して畠山を討つために押し寄せてくると、使者が届きます。

「御屋形さま、敵は幾千万騎とも知れません。とても勝ち目はありません。
ここは本拠地の菅谷館に撤退し、討手を待って迎撃するべきです」

「そうはいかぬ。親を忘れ国を忘れるのが武士の本懐である。重保が殺された今、菅谷館などどうでもよい。討って出るべし」

こうして畠山一族は、鎌倉を向けて軍勢を進めることとしました。

北条時政 御所の守りを固める

北条時政は400名の軍勢をひきいて将軍源実朝の警護するため御所に参上します。

「鎌倉殿、もうご安心ください。時政がおります。
畠山など、物の数ではございません」

「うむ。心強いぞ時政。されど本当なのか、
あの畠山が謀反などと」

「たしかに畠山は旗揚げ以来の忠臣。されど、鎌倉殿、
畠山はもともと平家に仕えていたものです。
衣笠城で三浦一族を攻め滅ぼしたのも畠山。
本心から鎌倉に従っていたわけではなかったのでしょう」

「そうか…あの畠山がのう…」

迎撃

一方、北条義時は、軍勢を率いて、畠山迎撃に鎌倉を出発します。

前後の軍勢は雲霞のごとくで山に連なり地に満ちました。

「畠山重忠は、歴戦の勇者ぞ。
容易には勝てぬ。心してかかれっ」

さう下知を下しながらも北条義時は、疑いをぬぐいきれませんでした。

(ほんとうに畠山は背いたのだろうか…?)

遭遇

正午ごろ、武蔵国二俣川(神奈川県横浜市旭区)で畠山の軍勢と遭遇します。この時鎌倉方1万騎。畠山勢はわずか134騎だったといいます。

「かかれーーっ」
「攻めろーーーっ」

ワアーーーッ

鎌倉方からは、畠山の旧友・安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入しました。

迎え撃つ畠山重忠、

「者共、安達殿はわが旧友にして、一人当千の兵。
死ぬ気で戦え」

ヒュン、ひゅんひゅん

キン、カン、ズバア

弓矢の戦い、刀剣の戦い、4時間に及びますが、圧倒的な幕府軍の前に、畠山勢はあそこに、ここに討たれていく。その中にも、

「まだまだ、わしは戦える!」

鬼神のごとく敵をけちらす畠山重忠でしたが、

その時、幕府御家人愛甲季隆が放った矢が

ひょーーーう、

ふつうっ

畠山重忠の体を射ぬき、

ぐはっ。

どたーーっ。

ああっ、重忠さま、重忠さま、

それっ、敵は討たれたぞ。わーーっと攻め寄せ、
愛甲季隆は畠山重忠の首を取り、北条義時の陣に献上しました。享年42。

事後

翌22日、凱旋してきた息子北条義時に、父北条時政はたずねます。

「して、どうであったか。畠山の様子は」

義時は憮然として言いました。

「畠山の手勢はわずか百そこらでした。謀反など、何人かの讒言に決まっています。重忠の首を目の前にした時、年来の交わりを思い、涙が止まりませんでした」

それに対して父時政は、何も言いませんでした。

北条義時、父時政と決裂

「畠山は謀反などしていなかったのだ。父時政をたきつけた榛谷(はりがや)・稲毛こそ、憎き敵!」

北条義時はすぐさま、時政に入れ知恵した榛谷重朝・稲毛重成のもとに軍勢を差し向け、攻め滅ぼしました。これは重要な動きといえます。これまで義時・政子は父時政と同一路線を歩んできましたが、この時点で、ハッキリと父と反対の立場を表明したのでした。

北条時政と義時・政子が決裂するに至った根本的な原因には、義兄弟である畠山重忠を殺されたという怨みだけでなく、もっと政策方針的な食い違いが前々からあって、畠山事件によってそれが爆発した、と見るのが自然です。しかし『吾妻鏡』からハッキリした経緯は読み取れません。

牧の方事件

義時の中で、父時政に対する不信感が高まっていきます。

「父上は誰でも殺します。梶原景時殿や、
頼家公も父のしわざでしょう。陰謀によって殺したのです。
そして今また畠山殿を。
ああいう暗い人物は、たとえ父でもどうにかしないといけません」

「義時、お前もそう思いますか…そろそろ父上のこと、
いかにもせずばなるまい」

姉政子も、同意しました。

畠山事件から二か月もたたない元久2年(1205年)年閏7月19日。

北条政子の耳によからぬ噂が聞こえてきます。

北条時政・牧の方夫妻が、将軍源実朝を殺害し、かわって平賀朝雅を将軍として擁立しようとしている、と。

「すぐに鎌倉殿をお守りするのです!」

北条政子は将軍実朝の御所に御家人たちを差し向け、実朝の身を弟義時の館に移します。

一方北条時政、牧の方夫妻は、「うぬぬ政子、わしに逆らうのか。ええいこの上は父でも娘でもないわ」

名越の館に軍勢を集めて襲撃させようとしますが、

「私は義時さまのもとで鎌倉殿をお守りいたします」
「私も義時さまのもとで鎌倉殿をお守りいたします」

「ななっ…」

皆、北条時政のもとを去り、義時のもとへ
もはや北条時政につく者は、誰もありませんでした。

その夜、北条時政は出家させられ、伊豆北条郡に引退しました。
これを牧の方事件といいます。

そして10年後の建保3年(1215年)北条時政は息を引き取りました。享年78。墓は伊豆韮山町の願長寿院にあります。

次回「源実朝と鴨長明」に続きます。

解説:左大臣光永

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