頼家から実朝へ

頼家の出家

「出家をおすすめします」
「なに、出家じゃと!なぜ吾が…」
「北条殿は、鎌倉殿にはゆっくりと静養していただきたく思い、
そのためには静かな伊豆の修禅寺にお移りいただこうと」

「ふざけるな。吾は北条の思い通りになど、ならぬ。
出家などせぬ。出家などせぬぞ」

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太刀のつかに手をかける頼家を母北条政子が取り押さえ、

「頼家、およしなさい」
「離してください母上。母上は
北条と源家と、どちらの味方なのですか」
「今は、こうするしか、ないのです」

このままではわが子頼家が父北条時政に殺されてしまうと思った政子は、
父時政と息子頼家との間で板挟みとなって苦しみながらも、
頼家を出家させ、伊豆修善寺に流すこととしました。1203年(建仁3年)9月7日のことでした。

「とほほ…将軍にまでなった者が、こんな所に島流しとは」

そして建仁3年(1203年)10月。 

頼家の弟・12歳の千幡が家督を継ぎ、三代将軍実朝と名乗ります。そして北条時政は、大江広元と並び、政所別当に就任します。いわゆる執権のはじまりです。

頼家の死

1204年(元久元年)7月18日。

頼家は幽閉されている伊豆修善寺で風呂に入っていました。

ふんふんふ~ん。

そこへ忍び寄る人影。

ひたっ、ひたっ、ひたっ、ばっ

あっ、おっ!何奴じゃ。おのれ。

すぷっ、すぷっ、すぷっ、すぷっ
ぐっはあああ。かはっ。

こうして頼家は、突如乱入してきた賊に殺害されました。23歳の若さでした。賊は北条氏が放ったものという説が有力です。

父と君

12歳の千幡は、元服し、後鳥羽上皇を名付け親として実朝の名を賜ります。そのせいか、実朝は生涯にわたって後鳥羽上皇を「君」とあおぎ、後鳥羽上皇へのかわらぬ忠義心を抱き続けました。有名な「山は裂け 海は浅せなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」という歌に、実朝の後鳥羽上皇への忠誠心があらわれています。

実朝の父頼朝は実朝が8歳の時に亡くなっています。そこへ、うめあわせるように後鳥羽上皇があらわれたのです。実朝にとって後鳥羽上皇は主君であると同時に、実の父頼朝にかわる、精神的な父でもあったのかもしれません。

『新古今和歌集』鎌倉到着

1205年9月5日。

京都から藤原定家の弟子内藤朝親(ないとうともちか)が、『新古今和歌集』の写本を持って鎌倉を訪れ、源実朝に献上します。

「おうおう、いよいよ来たか。これから毎日が楽しくなるのう。
父君の御歌は、あるのか」

「ございますよ」

「上皇さまの御歌は」

「もちろんございます」

「定家さまのは」

「たくさん載っております」

実朝は完成したばかりの『新古今和歌集』に熱心に読みふけりました。これより以前から実朝は歌づくりを始めていました。京都から坊門信清の娘を妻として迎えてから、間もなくのことでした。

おそらく妻から、京都の歌壇の様子、定家の御子左家を中心とした盛り上がり、『新古今和歌集』の編纂事業のことをきいて、そうかそうか、楽しそうじゃのうと胸を高ぶらせていたのでしょう。

実朝は熱心に『新古今和歌集』を読み込み、本歌取りして自ら歌を作り、後には『金槐和歌集』を完成させています。

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解説:左大臣光永

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