比企能員の変

こんにちは。左大臣光永です。葉桜の綠が目にまぶしいこの時期、いかがお過ごしでしょうか?私はふだん最終週に多摩の市民講座をやるんですが、今月は早く終わったので、一週間多く生きている感じがします。

というわけで本日は、昨日東京多摩で行った市民講座の録音から、「比企能員の変」をお届けします。

▼音声が再生されます▼

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Kamakura08.mp3

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北条氏が鎌倉の主として君臨するまで、血で血を洗う争いが続きました。北条氏は反対勢力を次々と粛清し、失脚させ、北条氏の権力拡大をはかります。かつての藤原氏のように、陰謀によって他の氏族を失脚させていきました。

二代将軍源頼家の時代、北条氏の標的になったのが、大豪族・比企能員です。

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比企と北条の争い

1203年(建仁3年)3月、頼家が重病をわずらい、危篤状態に陥ります。
政子は急遽、御家人たちを集め会議を開きます。

「今将軍家が倒れると、後継者問題となるのは必定です。
どうしたものか」

次期将軍候補者としては、頼家長男の一幡と、
頼家の弟千幡…後の三大将軍実朝がいました。

政子には頭の痛い問題でした。

頼家の側室であり一幡の母である若狭局は比企一族の女です。
一方、千幡の母は政子ですから、北条氏です。

北条氏と比企氏
北条氏と比企氏

一幡を擁立する比企氏とと千幡を擁立する北条氏。

両者の間に争いが起こることは必定でした。

悩んだ挙句、政子は比企と北条の双方の
分割相続という手を取ります。

頼家の長男一幡には関東二十八ヶ国地頭職と日本国総守護職を、
弟の千幡(後の三大将軍実朝)には関西三十八カ国地頭職を与えることとします。

しかし、一幡の母若狭局の父比企能員は黙っていませんでした。

分割相続。とんでもない。

次期将軍は一幡に決まっているのだ。
比企一族が唯一の外戚として、うまい汁を吸うのだ。
それを北条などに邪魔されて、なるものかと。

こうして一幡を擁立する比企氏と、
千幡を擁立する北条氏との権力争いとなっていきます。

「比企氏の乱」

『吾妻鏡』には以下のように書かれています。

病の床にある頼家の枕元で若狭局がしきりに訴えるのでした。

「あなた、北条時政を討ってください。
あの者は世を乱します」

たび重なる説得についに心動いた頼家はそうかわかったと、
若狭局の父・比企能員を召しだします。

「義父上、私は北条時政を討とうと思います。
協力してください」

「おお。ようやくご決断くださいましたか」

この一部始終のやり取りを、障子の向こうから
北条政子が聞いていました。
(できすぎた場面ではありますが、あくまでも『吾妻鏡』に書かれたことです)

「大変。父に知らせなくては」

政子は父北条時政に報告します。時政は、

「事は慎重に運ばねばならぬ。
比企能員を討つ。それはよい。だがまず、
味方を集めなければ」

そこで北条時政は、幕府長老・大江広元に相談します。

「比企を討ちます」
「なんと、それは、ううむ…しかし…」

大江広元は言葉をにごしながらも、結局北条時政に同意しました。

すぐに時政は比企能員のもとに使いを出します。

「名越の館で仏事を行います。比企能員殿にはぜひご参加くだされ」

北条よりの誘いを受けて、比企能員の郎党たちはあやしみます。

「オヤカタさま、これは北条の罠です」
「北条はこちらの動きを察して罠をしかけてきたのです」

「うむ。用心に越したことはない。
だが、鎧を着ていければ、かえってあやしまれる」

そう言って能員は平服のまま北条時政の名越の館を訪ねていきました。

館が近づいてくると、どうも様子がおかしいです。

(はてな。この物々しさは)

館の中では、がちゃがちゃと鎧具足をまとった武士たちが
ひしめいており、武士たちが高くかかげた長刀も見えます。

(まずい)

そう思った時、がしっ、がしっ、

両脇を北条時政配下の武士、
天野遠景(あまのとおかげ)と仁田忠常(にったただつね)が支えました。

「な、なんじゃそのほうらは無礼であろう!!」

「比企殿、こちらへ」

「あっ!どこへつれていく!離せ!!
あっ、ああっ、あーーー!!」

武士は比企能員を竹やぶの中に放り出し、ずだずだに切り殺してしまいました。

「ひ、ひいい。御屋形さまが、御屋形さまが」

比企能員の従者は命からがら北条邸を逃げ出し、比企邸宅に戻ると、
比企能員が殺されたことを報告します。

「おのれ北条。やはり陰謀であったか」
「汚いマネを。かくなる上は、一幡君を擁して、
北条と戦うまで」

比企一族は一幡のいる大倉幕府西の小御所にたてこもります。北条政子は、

「これは謀反です。心ある御家人たちよ。謀反人比企一族を追討すべし」

政子が号令を下すと、鎌倉中の御家人たちが大挙して集まり、
北条義時を大将とする討伐軍が、わーっ、わわーっと
比企一族のたてこもる小御所に押し寄せます。

激しい合戦となりますが、比企一族は次々と討たれ、
もはやこれまでと館に火を放ち、

「一幡君、お守りできませんでした…」
「ああ、お前たち…」

比企一族は一幡の前で自害し、
一幡も炎にまかれて死にました。

頼家の外戚として権力をふるった比企一族はこうしてあっけなく滅亡しました。

以上が『吾妻鏡』に書かれただいたいの事件の顛末ですが、『吾妻鏡』は北条氏の手によるもので、北条氏に都合の悪いことは書きません。比企一族が最初に謀反を考えたような話になっているのは、捏造と思われます。

比企谷の比企能員の館跡には現在、妙本寺が建っています。

「比企氏の乱」事後処理

「ほれっ、キリキリ歩け」
「くっ、何もかも北条の思うがままか…」

事件後、関係者があるいは処刑され、あるいは島流しとなります。
比企一族の妻や幼子たちは安房国へ流されます。

また比企能員の妹の子は島津忠久といいましたが、薩摩・大隅・日向の広大な領土を没収されます。そのうち日向・薩摩は北条時政の領土となりました。

北条時政は、この事件の直後、朝廷に早馬の使者を飛ばしました。将軍頼家が死ぬので、千幡を立てる許可を求めに行かせたのです。

頼家はじっさいかなりの重病で、このまま逝ってしまうと思われました。しかし、事件後、頼家の体調は回復します。

「ああっ、これはなんとしたことか。比企を亡ぼすなど、
おのれ北条時政、やりおったなあ!!」

頼家は、北条時政が妻の実家、比企一族をほろぼしたことを知り、激怒します。

「すぐに北条時政を追討せよ」

こうして仁田忠常・和田義盛に下知が下りますが、

「わしを亡ぼすだと。いい度胸ではないか」

「と、どんでもない。北条殿を亡ぼすなど、めっそうもございません」

御家人たちは今や北条の手先でした。北条を亡ぼすなど思いもよらないことでした。すぐに頼家のもとに北条時政の使者が押し寄せます。

つづき 頼家から実朝へ

本日も左大臣光永がお話いたしました。

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解説:左大臣光永