梶原景時の変

こんにちは。左大臣光永です。1月も後半。早いですね。
いかがお過ごしでしょうか?私は今週半ばに実家の熊本から
東京に戻ります。そして今週末、1月23日(金)東京多摩永山公民館で、
私左大臣光永の語る、「鎌倉と源氏三代の栄光」
第四回「頼朝から頼家へ」の講演を行います。
http://www.tccweb.jp/tccweb2_032.htm

源平合戦、奥州合戦を経て、源頼朝の征夷大将軍就任、
そして二代将軍頼家、北条氏の台頭まで。
東京近郊の方は、ぜひお誘いあわせの上、ご来場ください。

本日のメルマガでは、この講演に関連して、
「梶原景時の変」お届けします。


http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Kamakura06.mp3

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梶原景時というと…

「讒言梶原」「ゲジゲジ梶原」と言われるように、
あること無いこと讒言して、義経や上総広常を破滅においやった、
嫌われ者のイメージがあります。

もっともこれらは、芝居や後世の創作物の中で
形作られていったイメージであり、
必ずしも梶原が底意地の悪い、暗い人物だったとはいえません。

官僚としての能力は優秀で、
頼朝はだからこそ梶原を買っていたのです。

また梶原は京都の徳大寺家に出仕していたこともあり
「京都に馴るる輩」といわれました。

京都の、みやびな文化にも通じており、
和歌をたしなむなど、風流人でもあったのです。

また『平家物語』には、戦場で息子たちを気遣う
父親としての梶原も描かれています。

代々、武勇にすぐれた家柄です。

後三年の役で源義家に従い、右目を射抜かれながらも奮戦した
鎌倉景政は梶原景時の曽祖父にあたります。

結城朝光への讒言

1199年(正治元年)源頼朝が没すると、18歳の長男頼家が
家督をつぎます。

その頃、鎌倉の御家人たちの間では
梶原景時に対する反感が、高ぶっていました。

「梶原は陰気くさいんだよなあ」
「俺のことも将軍さまに讒言してるんじゃないか」

などと。

頼朝が亡くなって間もない1199年(正治元年)11月25日。
鎌倉の侍所では、頼朝公供養のために一万篇の念仏が唱えられていました。
その席で、御家人・結城朝光(ゆうきともみつ)がつぶやきました。

「ああ…頼朝公の時代がなつかしい。
忠臣は二君に仕えずというが、まったくその通りだ。
今の世は、薄氷を踏むような感じがするよ」

北条政子の妹・阿波局(あわのつぼね)は、
その言葉を聞き逃しませんでした。

(忠臣は二君に仕えず……)

阿波局は、結城朝光に伝えます。

「梶原景時殿が、結城殿の言葉をきき、これを謀反のしるしと見て
攻め滅ぼそうとしていますよ」

「な、なに!あんなの、他意の無いつぶやきではないか。
梶原殿はそれすら、人を蹴落とす材料にするのか!
まったくげじげじ梶原の憎たらしさよ」

「とにかく、こままでは潰されてしまいます。
仲間を集めませんと」

「そうですな。よく知らせてくれました」

梶原への弾劾状

結城朝光はすぐに三浦義村にこのことを伝えると、
三浦義村も怒り狂います。

「またも梶原の讒言か。われら御家人は、
ことごとく梶原の機嫌を取らねばならんのか。
もう我慢できん」

三浦義村はすぐに梶原に対する弾劾状を作り、
和田義盛、畠山重忠、千葉常胤など梶原に不満を抱く御家人たち66名の
署名を得て、これを政所別当・大江広元に提出します。

「うむむ…」

大江広元は幕府の長老的な人物ですが、もともと梶原びいきであり、
弾劾状の提出をしぶりました。そこへ、和田義盛がはっぱをかけます。

「大江殿、何をぐずぐずしておられる。
早く将軍家に提出してくだされ」

「くっ…仕方がない」

大江広元はしぶしぶ、弾劾状を頼家に提出しました。

追い詰められる梶原

11月12日。頼家は梶原景時を召しだします。

「そのほう、ずいぶん嫌われておるのう。
大勢が、梶原出て行けと申しておるぞ」
何か申し開きしたきことは無いか」

「何も、ございません。それがしは謹慎いたします」

梶原は所領地である相模国一宮(神奈川県寒川町)に引きこもってしまいます。

その後、一度は鎌倉に復帰しましたが、すぐに御家人たちは
梶原へ鎌倉追放令を出し、和田義盛、三浦義村両名が梶原追放を指揮し、
鎌倉の梶原の館を叩き壊します。

また、梶原は播磨国の守護でしたが、守護職を解かれ、かわって小山朝政が播磨守護職に任命されました。こうして鎌倉における梶原の居所はなくなります。梶原は一族郎党引き連れて、鎌倉を後にしました。

梶原滅亡

翌1200年(正治2年)。梶原は一族引き連れて
東海道を西へ向かっていました。
上洛を目指していたのです。京都に向かっていました。

なぜ、この時梶原が京都を目指していたか?
はっきりしたことはわかりません。

ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ

梶原一行が駿河国清見関(現静岡県清水市)にさしかかった時、
街道脇からわらわらわらっと現れた軍馬の群れがありました。

「梶原殿」

「お…おうおう、誰かと思えば、飯田家義殿ではないか。
どうなされた、こんな所で」

「それはこちらの台詞。聞けば梶原殿は
京都で別の将軍を打ちたて、鎌倉を攻め滅ぼそうという腹だとか。
わ殿とは頼朝公旗揚げ以来のよしみではあるが、
鎌倉の御家人として、そのうな暴挙、見逃すわけにゆかぬ。
いざ、お覚悟」

「ぐぬぬ…。北条の犬と成り下がったか。
この戦力差ではどうにもならぬ。
だがわしとて坂東武者のはしくれ。ただでは死なぬ。
ぬかるな景季、景高、景茂」

「はいっ父上」

どかか、どかか、どかか、どかか、
キン、カン、キキーン

激しい合戦となりますが、その場で三男の景茂が討たれ、
景時は嫡子景季と次男景高とともに山中に駆け込み、
腹かっ切って自害しました。
梶原一族33名の首は路上に懸けられました。

頼朝の懐刀として権力をふるった梶原景時の、
あっけない最期でした。

梶原景時失脚は北条氏による陰謀の線が濃厚です。

そもそも梶原が結城朝光を讒言したと言い出したのは
北条政子の妹阿波局です。

実際に梶原がそんなことをしたかどうかは、わかりません。
もしかしたら、ぜんぶ梶原を陥れるための捏造だったかもしれません。

そして、梶原が討たれた駿河国は、
北条時政が守護をつとめる国です。

こうしたことから、北条時政が政敵となりうる
梶原景時を陥れるための謀略だったと見るのが有力な説です。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

解説:左大臣光永

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