頼朝から頼家へ

粛清の嵐

「ああ、あなた、あなた!!」

曾我兄弟の話を報告された北条政子は、取り乱し、真っ青になります。

そこへ頼朝の弟の範頼が、

「御台所さま、ご安心ください。万一の時は、この範頼がおります」

そう言った、この言葉が、範頼の命取りとなりました。

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「そうか。範頼はそう言ったか」

頼朝は範頼に謀反の疑いありということで伊豆に島流しとします。後に幽閉先の修善寺で殺されました。範頼の一族も滅ぼされました。

これを皮切りに、粛清の嵐が吹き荒れます。

直後の28日、旗揚げ以来頼朝を支えてきた有力御家人である大庭景義と岡崎義実が出家しています。詳細は不明ですが、謀反を疑われて、疑いを避けるための出家であると思われます。

また甲斐源氏の安田義資(やすだよしすけ)は、院の女房に恋文を送った罪により斬られます。その父義定も、所領を没収の上、斬られます。

頼朝は後継者として頼家を定めるため、将来頼家の競争相手となりかねない有力御家人たちを排除していったのかもしれません。

大姫 入内工作

後白河法皇は建久3年(1192年)に崩御しますが、その前後から頼朝は長女大姫を、ついで次女三幡を後鳥羽天皇に入内させようとしきりに工作していました。

これは、御家人を統率するのに朝廷の権威づけが必要であり、権威の向上をねらってのものでした。

ただし後鳥羽天皇にはすでに摂政九条兼実の娘任子が中宮として立てられていました。ここへ頼朝が娘を入内させるとなると、中宮の座をめぐって競合となります。

「九条兼実ごときに負けぬ」

頼朝は気をひきしめます。

健久六年(1195年)平家によって消失させられた東大寺の大仏の再建供養のために頼朝は二度目の上洛を果します。前回と違い、妻政子・長男頼家・長女大姫を伴っていました。

これは頼家の後継者としてのお披露目と、大姫の入内を本格的に実行する意思表示でした。

今回の上洛では後鳥羽天皇つきの女房藤原兼子(けんし)にしきりに引き出物を贈り、後鳥羽天皇のもとにどうかわが娘大姫を入内させてくださいと、根回しをします。

翌健久七年(1196年)九条兼実は源通親(みなもとのみちちか)によって失脚させられます。娘の任子も、中宮の座から下ろされました。もちろん頼朝が糸を引いてのことでした。ようやく大姫の入内が実現する。その下地作りは整った。ほくそ笑む頼朝。

しかしほどなく大姫は病で亡くなり、また頼朝自身も亡くなり、三女三幡も亡くなります。頼朝の朝廷工作は、完全に頓挫していまいました。

一方、源通親は娘在子を後鳥羽天皇に入内させ、後鳥羽天皇と在子との間に生まれた皇子を即位させました。土御門天皇です。頼朝が朝廷工作にやっきになっている脇で、源通親は漁夫の利をさらっていった形となりました。

頼朝の死

頼朝は三度目の上洛を計画していましたが、正治元年(1199年)正月13日、鎌倉で亡くなります。享年53。『吾妻鏡』によると、御家人稲家重成が亡き妻を供養するために相模川に築いた橋の供養に参加した帰り、馬から落ちて死んだと書かれています。しかし死因は諸説あり、糖尿病とも、毒殺されたとも、さまざまな説がいわれています。

二代将軍 頼家

頼朝没後、家督を継いだのは長男の頼家でした。

北条政子をはじめ幕府首脳部は、頭を悩ませていました。

「頼家公はいまだ18歳。まだまだ父君の威厳には
遠く及びません。御家人たちが従うかどうか」

政子も同じ懸念を抱いていました。

「たしかに、頼家には頼朝公のような威厳はありません。
それは仕方の無いこと。皆で支えるのです」

十三人合議制

、御家人たちはさっぱり頼家に従いませんでした。「俺たちは頼朝公だからしたがってきたんだ。頼家なんか知るか」という空気がありました。とうとう政子も折れます。

正治元年(1199年)、政子はじめ御家人たちは、頼家が直接訴訟に判決を下すこと(親裁)を禁じます。

ついで、13人の有力御家人からなる幕府の意思決定機関を定めます。俗に十三人合議制といわれるものです。その人員構成は、

北条時政(ときまさ。政子の父、初代執権)
北条義時(よしとき。政子の弟。二代執権)
三浦義澄(みうらよしずみ)
八田知家(はったともいえ)
和田義盛(わだよしもり)
比企能員(ひきよしかず)
安達盛長(あだちもりなが)
足立遠元(あだちとおもと)
梶原景時(かじわらかげとき)
大江広元(おおえのひろもと)
三善康信(みよしやすのぶ)
中原親能(なかはらちかよし)
二階堂行政(にかいどうゆきまさ)

以上十三名から成っていました。

ようは頼家は将軍とはいっても、何もさせない。有力な御家人たちでぜんぶ決めてしまうという話です。

頼家の反撃

「ふん、ふんっ。吾に何もさせないつもりか。
お飾りというわけか。そうはいくか」

頼家は、十三人合議制への反撃として、自分の側近四人(比企宗員・比企時員、小笠原長経、中野能成)が鎌倉で何をしても許されるという通達を政所に下し、強引に認めさせてしまいます。

「おらあ、鎌倉殿のおすみつきだ。おっ、うまそうじゃねえか」
「ああ、よしてください。売り物です」
「なにい、売りものだ、鎌倉殿のおすみつきの我らから、
代が取れると思うてか」
「無礼者が、手打ちにいたす」

「ひいい、すみません、すみません」

などと、さぞや町中で好き勝手ふるまったことでしょう。

つづき 梶原景時の変

解説:左大臣光永

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