源頼朝 征夷大将軍となる

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頼朝の上洛

奥州合戦の翌年の健久元年(1190年)頼朝が上洛します。

いよいよ平家を滅ぼした鎌倉の主、あの頼朝が上洛する。
その期待に大臣公卿はじめ市民まで期待が高まります。
朝廷では権大納言兼右大将の位を用意してまで頼朝を歓迎します。

頼朝としても、伊豆に流されて30年ぶりの京都です。
さまざまな感慨があったことと思われます。

11月7日、頼朝は多くの家人を従えて京都入りし、
かつて平家一門の館のあった六波羅に入ります。
そして2日後の9日、後白河法皇と対面します。

この時頼朝は後白河より日本国総追捕使、
日本国総地頭の地位を授けられ、名実ともに
全国の軍事警察権を握ることとなりました。

さらに在京中に権大納言・右大将に任じられますが、
頼朝は上洛一ヶ月ほどで鎌倉に戻ってしまいます。

しかも、折角朝廷が用意した権大納言兼右大将の位も辞退しました。

頼朝としては、源氏は平家の二の舞にはならない。
あくまで源氏の基盤は東国にあるのだという思いがありました。
京都の貴族社会と近づきすぎることを嫌ったのです。
京都とは別の武家の政権を鎌倉に築くのだという
強い考えがありました。

健久6年(1195年)に再度上洛した時は、天台座主慈円の歌に答えて詠んでいます。

まず慈円の歌。

あづまじの かたに勿来の関の名は 君を都にすめとなりけり

それに答えて頼朝の歌。

みやこには 君にあふ坂ちかければ 勿来の関は 遠きとを知れ

慈円は陸奥の歌枕「勿来の関」に事寄せて、東国に帰るな。都に住めと言っています。京都にすむ公卿たちにとっては、平家一門のように、武士が朝廷によって権限を許されて京都にすまうことこそが、当たり前であり、望んだことなのです。

しかし、頼朝は都には留まりませんと、きっぱりと断っています。源氏は平家の二の舞にはならない。京都とは違う政権を、鎌倉で築くのだという頼朝の強い意志がここに見て取れます。

征夷大将軍

健久三年(1192年)七月、頼朝は朝廷より征夷大将軍の号を授けられます。これは長年頼朝が望んだことでした。なぜ頼朝は征夷大将軍を望んだか?長年議論されてきましたが、近年「山隗記」(中山忠親の日記)の中に頼朝が望んだのは「大将軍」であったことがわかりました。

そこで朝廷では話し合いました。 「大将軍といっても、いろいろある。征夷大将軍。征東大将軍。惣官大将軍。どれがよかろう」 「まあ、征夷大将軍にしときますか」 こんな感じで、消去法的に征夷大将軍が選ばれたことがわかってきました。

よって、頼朝が坂上田村麻呂にさかのぼる征夷大将軍を強く望んだ、という従来の説はひっこみます。「征夷大将軍」という称号は、後には鎌倉幕府の将軍職を代々さすものになりますが、少なくとも頼朝が就任した段階では、それほどの歴史的意義はなかったようです。

以前は「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と、頼朝の征夷大将軍就任をもって鎌倉幕府の創設としていたものが、現在は一般的には「イイハコ作ろう」文治勅許によって頼朝が全国に守護・地頭を設置した1185年をもって鎌倉幕府創設とするのも、征夷大将軍の意義は薄いということのあらわれでしょう。

事実、頼朝は二年ほどで征夷大将軍を辞退しています。

次回「北条氏の始まり」に続きます。

解説:左大臣光永

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