奥州合戦

奥州合戦

挙兵に失敗した義経は大物浜から九州に渡ろうとしますが、船が難破し押し返され、吉野、奈良、京都周辺を転々としたあげく、奥州の藤原秀衡をたよって文治三年(1187年)、平泉に入ります。

これを察知した頼朝は、義経は奥州にあり。法皇さま、今こそ義経追討の院宣をお下しくださいと詰め寄ります。しかし後白河法皇は、義経をお気に入りであり。のらりくらりと義経追討の院宣を下すことをしぶります。

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頼朝は後白河法皇にうったえますが、後白河法皇は義経をお気に入りでした。そうか…うむ、うむ。のらりくらりとはぐらかし、義経追討の院宣を下しはしませんでした。

同年10月、秀衡は伽羅御所で病の床につきました。息も絶え絶えな中、義経と二人の息子泰衡・国衡を枕辺に呼び、三人に起請文を書かせました。私が死んだら、鎌倉から義経殿を引き渡せと言ってくるだろう。けして、従ってはならんぞと。

「定めて入道死になば、鎌倉より判官(ほうがん)を討ち参らせよと、宣旨、院宣にも、勲功には出羽(でわ)、陸奥(みち)の国、常陸(ひたち)これら三箇国を賜らんとあらんずるぞ。相構へて相構へてこれを用ゆべからず。

かかる御下知(おんげち)のあらんときより、定業(じょうごう)の病を受くる所は、戒力(かいりき)勝りたる入道の身にも、過分の所にてもあるに、況(いわん)や親に勝る子やはある。各々(おのおの)巧言(こうげん)を以て地図を賜らん事叶ふべからず。

鎌倉よりの御使ひには、院宣叶ふまじき由(よし)を申さんに、強ひてまた下らば、鎌倉の御使ひなりとも頸(くび)を斬れ。両三度まで使ひの頸を斬るならば、その後はよも下されじ。たとひ御使ひありとも、大事にしてぞあらんずらん。その用意して、念珠(ねず)、白河両関を塞がせ、判官殿疎(おろ)かにもてなし奉るべからず。過分の振る舞ひあるべからず。

この遺言だにも違へずは、末代といふとも汝らが末の世は安穏(あんのん)なるべしと心得よ。生を隔つとも」と言ひ置きて、これを最期にて十二月廿一(にじゅういち)日の明け方に終(つい)にはかなくなりにけり。妻子眷属(けんぞく)嘆き悲しむといへども甲斐なし。
『義経記』より

こうして、北方の王者藤原秀衡は逝去しました。その遺体は、金色堂の右側の須弥壇の下に、祖父清衡・父基衡の遺体とならんで安置されました。

しかし秀衡の跡をついだ泰衡は、鎌倉からの再三にわたる義経の身柄引き渡し要求についに屈しました。

文治五年(1189年)閏4月30日、泰衡は、義経の居城であった平泉の高館を襲撃します。

「おのれ泰衡。裏切ったな」
「殿、お逃げくだされーー。弁慶はここで食い止めます」
「ああっ、弁慶、弁慶ーー」

ひゅう、どす、どす、どすーーっ

あの有名な「弁慶の立ち往生」の場面が「義経記」には記されています。しかし、武蔵坊弁慶はじめ義経配下の武士たちの戦いもむなしく、敵に攻め立てられた義経は妻子ともども持仏堂の中で自害しました。

「これでもう義経問題はおわりだ。ようやく奥州は平和になる。
まったく迷惑な客人であった」

ほっと胸をなでおろす藤原泰衡。これで戦は終わったと思いました。後白河法皇もそのつもりで、頼朝に対しこれ以上奥州を攻めるなと武装解除勧告を出しました。6月13日、泰衡は塩漬けにした義経の首を鎌倉に送ってきます。しかし、頼朝は、泰衡を許すつもりはありませんでした。奥州攻めを強行します。

それは、老臣・大庭景能の献策によるものでした。

「殿、軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと申します。戦場では将軍の命令が優先され、皇帝の命令はきかないという中国の故事です。また、泰衡は殿の家人です。これを追討するのにいちいち朝廷の勅許が必要とも思われませぬ」

「うむ。そのほうの言うとおり」

頼朝は北は関東から南は九州薩摩まで 大規模な動員令を出し、鎌倉に軍勢を集めます。 その数は『吾妻鏡』によれは二八万四千騎。

そして自ら軍勢を率いて奥州へ出陣しました。
文治五年(1189年)7月。奥州合戦の始まりです。

奥州合戦 地図
奥州合戦 地図

頼朝の強硬姿勢を受けて奥州では内部争いが起こり泰衡は異母弟の忠衡を殺害します。

動員をかけられた武士たちは、この動員を無視すれば、忠誠心が無いとみなされる、戦後、どんな責めを受けるかもと考えると、動員に応じないわけにはいきませんでした。

しかし、彼らにとってもこの遠征やる気をかきたてられる、積極的に参加するだけの価値のあるものだったとも言えます。

奥州は貴族たちから見れば不毛の土地でしたが、武士には魅力的な土地でした。奥州で産出される馬、そして鷲の羽根やあざらしの皮などは、武具の材料としてとても魅力的なものでした。

今回の頼朝の奥州征伐に加われば、奥州に所領を得ることができる。地頭として、奥州でうまい汁を吸うことができる。その思いが、武士たちのやる気を高めていました。

そして頼朝個人にとっては、奥州藤原氏との長年にわたる決着をつけるという意識がありました。

かつて後三年の合戦で清原氏の内部抗争に武力介入したのが源頼朝の四代前の先祖・源義家です。5年にわたる合戦のすえ、義家は勝利しますが、朝廷からこの戦は私事とみなされ、恩賞を得ることができませんでした。

一方、義家と同盟関係にありながら、たいして戦働きもしなかった清原清衡が、奥州での膨大な利権を戦後手に入れることとなり、奥州藤原氏の祖となりました。

源氏から見ると、われらが先祖八幡太郎義家の得るはずであった奥州の利権を、なんら働きのなかった奥州藤原氏がかっさらっていった。おのれ奥州藤原氏。今こそ滅ぼしてくれんの思いがあります。頼朝は八幡太郎義家以来100年来の奥州藤原氏との因縁に決着をつけるべく、この遠征にのぞんだのです。

7月19日、総勢を三手に分けて鎌倉を出発します。東海道の大将は千葉常胤と八田知家。下総、常陸を経て陸奥の海岸線沿いに進み、阿武隈川を渡って多賀城、平泉を目指します。

奥州合戦 地図
奥州合戦 地図

北陸道の大将軍は比企能員と宇佐美実政。上野・信濃を経て越後に向かい、念珠(ねず)の関を越えて出羽を目指します。

大手の大将軍は源頼朝。先陣を畠山重忠がつとめます。下野を経て陸奥に入り白河の関を越えて、多賀城、平泉をめざします。

参加した人数は二十万人ともいわれますが、実際は二、三万とも思われ、数ははっきりしません。

一方、藤原泰衡は国見宿に本営を置き、頼朝軍を迎え撃ちます。阿津香志山に二重の堀と防塁を築き、阿武隈川から水を引き入れ、ふふふこれなら頼朝とて容易にはこせまいと、泰衡は、義弟の国衡に指揮を執らせます。その数二万。

9日・10日と合戦が行われます。藤原国衡は和田義盛に打ち取られます。

8月10日、最大の難所・阿津香志山防塁(現福島県国見町)にかかります。

二重の堀と防塁で頼朝軍の行く手をはばまんとするのでした。

ひゅん、ひゅん、

防塁の上から容赦なくあびせかけられる矢。

ぐはっ、ぎゃあと頼朝軍は次々と打たれ苦戦を強いられます。

「うぬぬ。この堀がすべての元凶。畠山、堀を埋めてくれ」
「心得ました!」

畠山重忠率いる七十名が決死の覚悟で堀を埋め立てると、ああっ、俺たちが必死で築いた堀が、おのれ頼朝。それっ、敵の守りは崩れた。かかれーーっ。わーっ、わーっと、阿津香志山の防塁はついに突破されました。

8月12日、多賀城入り。
22日、平泉を占領。

「なんと美しい…」

頼朝らが目にしたのは、初代清衡の築いた中尊寺の大長寿院(二階大堂)です。その、あまりのすばらしさに心打たれた頼朝は、後に鎌倉に二階大堂に似せた寺院を築かせました。

さらに頼朝軍は北上を続けます。一方、藤原泰衡は、

「はあはあ。私はどこまでも逃げるぞ」
「殿、いい加減にしてください!」

ぐさっ。ぎゃあーーー

藤原泰衡は、部下の河田次郎の裏切りによって殺されました。9月3日のことでした。

翌9月4日。

陣丘(じんがおか)に布陣する頼朝のもとに藤原泰衡の首が届けられました。
敵の首領は内部争いによって命を落としたのでした。
もはや戦う理由はありません。しかし、頼朝は

「北へ。さらに北へ向かうのだ」
「はっ…?しかし鎌倉殿、もう敵はおりませんが?」
「わしには考えがある」

9月11日、厨川柵(現 岩手県盛岡市)に至ります。

「ここが厨川か…」

しみじみ感慨にふける頼朝。

この地はかつて前九年の役で源頼義が
敵将阿倍貞任を滅ぼした場所です。

頼朝は河内源氏にとって宿命の地ともいえる
ここ厨川の地に、殺害された藤原泰衡の首をさらしました。

頼朝は今回の奥州攻めを、頼義以来の
河内源氏と奥州藤原氏との因縁の最終決戦とみなしていたのです。

ここにようやく頼朝は満足し、
軍勢を引き返します。途中、平泉で
論功行賞が行われ、奥州の広大な地が多く
配下の御家人たちに所領地として与えられました。

10月24日、頼朝軍は鎌倉に戻ります。

つづき 源頼朝 征夷大将軍となる

解説:左大臣光永

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