わかる鎌倉時代(四)蒙古襲来

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蒙古の使者

文永5年(1268年)正月、元国フビライ・ハンの使者が対馬を経て大宰府に到着しました。国書は約40日後、鎌倉に到着します。

「ううむ…これはいったい、どうしたものか」

時の執権北条政村は、迷ってしまいました。

国書の内容は、ようするに「仲良くやりましょう」ということでした。

フビライは当面の敵・南宋を孤立させる作戦のうちに日本、高麗を組みこもうと考えていたのであり、この時点では、侵略の意図は無かったと思われます。

しかし末尾が「武器を用いることは誰が望むであろう」と、脅迫とも取れる言葉で結んでいました。そこで幕府の決定は、

「無視」

というものでした。そして国書を無視した以上、戦は避けられないと危機感が高まります。朝廷では伊勢神宮はじめ二十二社に奉幣がなされ、異国調伏の祈祷を行わせました。

幕府では西国の御家人たちに、蒙古襲来に備えるようにお達しを出します。同年3月。高齢の北条政村にかわり、18歳の北条時宗が8代執権に就任し、蒙古を迎え撃つ体制を整えました。

文永7年(1270)、ふたたび蒙古の使者が到着します。これも、無視しました。

「こうなっては蒙古襲来は時間の問題である。
九州に所領を持つ御家人たちは九州に下り、
海岸の守りを固めよ!」

文永8年(1271年)執権北条時宗の命により、九州に所領を持つ御家人たちは九州に下り沿岸の守りにつくこととなりました。その直後、またも蒙古からの使者が到着します。

今度は今までのような軽い感じでなく、無視すれば攻め込むぞという、強く威嚇する内容でした。これも断固、無視しました。

日蓮

「それ見たことか。外国が攻めてきた。法華経を信じないから、こうなるのだ。今こそ邪教を捨てて、法華経を信じよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経!」

こういってワアワア言い出したのが!誰ですか。日蓮です。日蓮は法華経のみを正法(しょうぼう)…正しい教えとして、他の宗教、念仏宗や真言宗、禅宗を厳しく批判しました。そのため庵を襲撃されたり、伊豆や佐渡に流さたりしましたが、日蓮はめげず、むしろ迫害を受けることこそ日蓮が法華経の行者であることの証拠と、その確信を高めていきました。

1260年に日蓮が前執権・北条時頼に奉ったのが…『立正安国論』です。その内容は、主人である日蓮のもとを客である北条時頼が訪ねて行きます。世の中は飢饉や疫病。酷いことになっている。人々は仏教をあがめ仏教はますます盛んなのに、どうしてこんなことになってるんですかと。

それに対して主人である日蓮が答えます。いやあなた、仏教がさかんだと言いますけども、それは念仏宗といった間違った宗教が盛んなんですよ。だからダメなんです。今こそ法華経を信じなさい。そして質疑応答繰り返しているうちに、北条時頼が法華経に帰依する、という内容でした。

しかし北条時頼はこの日蓮の『立正安国論』を無視しました。北条時頼は国家のトップに立つ指導者であり、特定の宗教を強制したり批判したりできない立場でした。日蓮の『立正安国論』は念仏宗という特定の宗教を名指しで攻撃していました。だから時頼は日蓮の『立正安国論』を受け入れるわけにはいかなかったんです。その後も、日蓮の言葉が幕府から用いられるこはありませんでした。

「三度諫めてきかれずは、すなわちこれを去る」

日蓮はそう言い残して、蒙古襲来の危機感も高まる文永11年(1274)、ひっそりと身延山に隠棲します。

文永の役

その年の10月、最初の蒙古襲来がありました。文永の役です。蒙古は博多に上陸し、幕府軍は大宰府まで撤退させられました。その間、蒙古軍は博多の家々を焼き払い略奪の限りを尽くし戦の神である筥崎八幡宮も燃やされてしまいました。ところが翌日、恐る恐る浜に出てみると、すっかり蒙古の船は引き上げてたんですね。なぜなのか?今日でもよくわかっていません。神風が吹いたとも、単なる威力偵察だったとも言われています。

文永11年(1274年)文永の役
文永11年(1274年)文永の役

弘安の役

7年後。弘安4年(1281)ふたたび蒙古が襲来します。弘安の役です。今回は、前回の反省に基づき、博多に防塁を築いて防御を固めており、鎌倉の御家人たちもまた決死の思いで戦いました。博多の海の中道で激しい合戦が行われました。そして今回も暴風雨が吹き、蒙古軍は撤退していきました。また、蒙古軍は人種も国家もバラバラな混成部隊であり、統率を欠いていたことが失敗につながりました。

弘安4年(1281)弘安の役
弘安4年(1281)弘安の役

戦後の状況

とにかく、日本は二度の蒙古襲来を退けました。それで、鎌倉の御家人たちの暮らしはよくなったか?なりませんね。むしろ悪くなりました。今回の戦いは外国を相手にした防衛戦争であったため御家人たちは恩賞にあずかれませんでした。幕府は恩賞として与えたくても与える土地がありませんでした。

また、分割相続というシステムが破綻をきたしていました。鎌倉時代の相続は、すべての子に均等に土地と財産を分けるというものです。一見公平そうですよね。しかし、何世代か経つうちに土地も財産も加速度的に少なくなっていきます。いわば逆ネズミ講といいまか。いずれハタンすることが分かり切っているシステムといえました。

こういうこともあり、御家人たちの暮らし。しだいに貧しく苦しくなっていきます。

「もう暮らせません」「借金で首が回りません」

こういう御家人が増えていきました。

霜月騒動

弘安の役の三年後の1284年、北条時宗は死に、息子の貞時が九代執権となります。しかし14歳と幼いので、貞時の叔父であり鎌倉を代表する有力御家人である安達泰盛と、貞時の乳母の夫である平頼綱が、政治を補佐しました。


安達泰盛と平頼綱

安達泰盛と平頼綱。この二人が時の人となったのです。しかし安達泰盛と平頼綱、互いに互いを失脚させようと、若い北条貞時に相手の悪口をふきこみます。悪口合戦において一歩抜きんでたのは平頼綱でした。

「安達泰盛の息子が、自分は頼朝公の子だなどといって、源氏を称しています。これは幕府を乗っ取ろうとしているに違いありません」

「なんじゃと…!それは聞き捨てならぬ!しかしどうすればよいのじゃ」
「この平頼綱にお任せください」

こうして平頼綱は、若い北条貞時をたらしこんでおいて、安達泰盛の屋敷を襲撃し、安達父子を討ち取ります、さらに平頼綱は、鎌倉中の安達泰盛に縁のある者を皆殺しにしたばかりか、ドサクサにまぎれて安達とは何の関係も無い者も殺しまくります。

粛清の嵐は上野・武蔵・さらに九州にまで及びました。平頼綱に目をつけられた者はことごとく攻め滅ぼされました。これを1285年霜月騒動といいます。

平禅門の乱

こうして平頼綱は安達氏を滅ぼし、安達氏のみならずドサクサ紛れに自分に敵対する勢力をことごとく滅ぼすと、出家して平禅門(へいぜんもん)と呼ばれます。「さすがにワシは血を浴びすぎた、出家して身を清めようという」そんな気持ちもあったかどうだか。

安達泰盛が滅ぼされてからというもの、平頼綱がひたすら独裁政治を行い、だれもがただ恐れる他のことはなかった…

一般に、平頼綱の時代は、このように恐ろしい独裁政治だったと言われます。特に、北条氏の「御内人(みうちびと)」を使って将軍直参の「外様御家人(とざまごけにん)」の行動を厳しく監視させました。


御内人と外様御家人

しかし、平頼綱の独裁政治も長くは続きませんでした。執権北条貞時はすでに成人していました。なんでも言いなりの操り人形にはなりませんでした。1293年平禅門に謀反の疑いありと密告を受けた北条貞時は、平禅門の屋敷に軍勢を差し向けます。

「おのれ北条貞時、誰のおかげで偉くなったと思っているのだ!!!無念…」

平頼綱父子は炎の中、自害して果てました。これを1293年平禅門の乱といいます。

永仁の徳政令

平頼綱を滅ぼした北条貞時は、今こそ決意します。「そもそも他人である平頼綱などに政治を任せたのが間違いであった。政治は得宗が自ら行うきである」

さっそく対策が立てられたのは、所領を失って無足人となっている御家人の救済でした。蒙古襲来以来、じゅうぶんな恩賞にありつけず、やむなく先祖伝来の土地を売り、御家人身分をはく奪され、落ちぶれている者が多かったのです。

貞時はこうした御家人たちを救おうと、三代前に御家人とされた者は、証書さえあれば土地がなくても御家人と認められることに決めました。

「やった。御家人に戻れるんだ」
「ようやく先祖に顔向けができる」

などと喜んだ者も多かったことでしょう。御家人救済。それが北条貞時の方針でした。その線で出されたのが1297年永仁の徳政令です。借金は帳消しにする。質入れしているものも、無条件で取り戻せるという内容です。

「やった!肩の荷がおりた!」

喜んだのも一瞬でした。貸しても反ってこないとなると、誰も御家人に金を貸す者はいなくなります。結果、かえって御家人たちの生活が苦しくなりました。大失敗です。永仁の徳政令は一年ほどで廃止され、以後、鎌倉幕府は徳政令を二度と出しませんでした。

このように御家人たちの暮らしが貧しくなる、末期的状況の中、「あの人物」が歴史に登場します。

明日は最終回「10分でわかる鎌倉時代(五) 鎌倉幕府の滅亡」をお届けします。お楽しみに。

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本日も左大臣光永がお話しいたしました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

解説:左大臣光永

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