わかる鎌倉時代(一)源頼朝・源頼家

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「わかる鎌倉時代(一)源頼朝・源頼家」。

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いつもは個々の事件や人物を詳しく語っていますが、今回からざあーーっと見渡した鎌倉時代全体の流れを、駆け足で語っていきます。一回10分程度。全5回で鎌倉幕府の始まりから滅亡まで語ります。知識の整理がつき、鎌倉散策も一層楽しくなるはずです。

文治勅許

イイクニ作ろう鎌倉幕府。そう習った方もあると思います。私もイイクニと習いました。源頼朝が征夷大将軍になった1192年が鎌倉幕府の始まりだと。しかし何をもって「鎌倉幕府の始まり」とするのかは、あやふやです。

したがって始まりの時期も諸説あって定まりません。滅亡したのは1333年5月22日とハッキリしてるんですが。

現在、有力なのは1185年説です。これは源頼朝が文治勅許により全国に守護・地頭の設置を許された年です。イイクニではなく、イイハコつろう鎌倉幕府、というわけです。

1185年3月、源義経は壇ノ浦に平家一門を滅ぼします。しかし、すぐに兄頼朝との関係が悪化します。頼朝は自分に無断で後白河法皇から官位を受けた義経を許せませんでした。新しい武士の時代の新秩序のためには、武家の棟梁、鎌倉殿がトップに立っている必要があり、たとえ弟でも頼朝を超えて任官する事は頼朝には許しがたいことでした。

こじれにこじれて、頼朝と義経の関係は修復不可能となります。

「ええい。もう兄でも弟でもない。頼朝を討つ」

後白河法皇は義経を大のお気に入りでした。よしやれとすぐに頼朝追討の院宣を下します。しかし、義経に随う兵はわずかでした。すぐに自滅します。義経は頼朝に追われる立場となりました。

そこで義経が頼った人物が誰あろう北方の王者…そうですあの人。藤原秀衡です。

一方、頼朝は後白河法皇のもとに北条時政を遣わし、問いただします。頼朝追討の院宣を下したということですが、まことですか。いや、それは…。どうなのですか。すまぬ。義経を追討してくれ。

ならば、義経を捜索するために、全国に包囲網をしかなくてはなりません。こうして、守護・地頭という役人を全国に設置することを認めさせてしまいました。これが1185年文治勅許です。

守護・地頭の設置は名目上は義経の捜索を目的としていましたが、その真の目的は鎌倉の影響力を全国に及ぼすことにありました。事実、義経が滅んだ後も守護・地頭は全国にいすわり、鎌倉幕府を支える根幹のシステムとなっていきます。

奥州合戦

義経は頼朝の追及を逃れ、流れ流れて、北方の王者・藤原秀衡の元に駆け込みました。 藤原秀衡は駆け込んできた義経を手厚く保護しますが、ほどなく秀衡は亡くなり、息子の泰衡が跡を継ぎます。泰衡は父秀衡よりずっと凡庸な人物でした。

「義経を差し出せ」
「わ…わかりました」

ついに泰は鎌倉からの要求に屈し、平泉の義経の居城を襲撃し塩漬けの義経の首を鎌倉に送ってきます。しかし、頼朝は奥州藤原氏を断固、滅ぼす考えでした。

1189年、源頼朝は全国の武士を動員して奥州攻めを決行します。泰衡は戦うまでもなく、味方の裏切りによって自滅しました。

奥州合戦 地図
奥州合戦 地図

頼朝は平泉のさらに北厨川まで進み、泰衡の首をかかげると、ようやく鎌倉に引き返しました。

頼朝の上洛

奥州合戦後の1190年、頼朝は上洛し、後白河法皇に対面します。後白河法皇は頼朝に官位を授けますが、ほどなく頼朝は京都を去り、鎌倉に戻ってきました。

後白河法皇と貴族たちは、頼朝が京都に留まり、院や朝廷・貴族の守りとなることを望みました。院や朝廷・貴族の番犬として、その範囲で出世していけばいいだろうと。かつてそうやって栄華を極めた一族。そう平家一門のように。

しかし頼朝には別の考えがありました。

鎌倉に京都とまったく別の政権を作る。平家一門のように公家社会の中で権力を伸ばすのではなく、公家社会とはまったく軸の違う武士の政権を築く。そのためには京都の影響の少ない、東国鎌倉の地でなくてはならないと。

後年、ふたたび上洛した頼朝に、天台座主慈円が歌を贈っています。

あづまじの かたに勿来の関の名は 君を都にすめとなりけり

それに答えて頼朝の歌。

みやこには 君にあふ坂ちかければ 勿来の関は 遠きとを知れ

慈円は陸奥の歌枕「勿来の関」に事寄せて、東国に帰るな。都に住めと言っています。京都にすむ公卿たちにとっては、平家一門のように、武士が朝廷によって権限を許されて京都にすまうことこそが、当たり前であり、望んだことなのです。

しかし、頼朝は都には留まりませんと、きっぱりと断っています。源氏は平家の二の舞にはならない。京都とは違う政権を、鎌倉で築くのだという頼朝の強い意志がここに見て取れます。

頼朝から頼家へ

頼朝は1199年、亡くなります。相模川にかける橋の供養式典の帰りに馬から落ちたケガが元で死んだと伝えらますが、死因は諸説あります。

頼朝の後をついだ新将軍を何といいましたか。あの評判の悪い人物。頼家。二代将軍源頼家。何が評判が悪かったか?

まあ、苦労知らずのボンボンですから、あまり政治向きではなかったんですね。父頼朝の威厳には足元にも及びません。

「頼家に任せるわけにはいかない」

そう考えた頼家の母・北条政子は、13人の鎌倉の有力な御家人たちからなる議会を設置し、政治のことはこの13人の決定で決めてしまうことにします。それで頼家には形式的なことだけやらせることにしました。

「ふんふん、予には何もさせないってことか」

頼家はへそを曲げます。そこで頼家は側近4人は鎌倉で何をしても許されるという決まりを、強引に認めさせました。鎌倉で、だいぶ暴れまくったでしょうね。おらあ将軍さまのおすみつきだ。文句あっかという感じで。

ある時、境界争いの裁判が持ち込まれました。土地の権利について争っていたので、鎌倉に決めてもらおうというわけです。頼家は双方の言い分を興味なさそうに聴いていて、やおら立ち上がり、すーーっと地図の真ん中にテキトーに線を引きます。

「これが境界ぞ。広い狭いは運しだい。はははは」

こんな感じでしたから、御家人たちの信頼は離れていきます。今度の将軍さまはひどいもんだ。頼朝公とはえらい違いだと。

比企能員の乱

1203年、頼家は病にかかります。すると頼家の母政子の実家である北条氏と、頼家の妻・若狭局の実家である比企氏の対立が高まります。頼家が死んだ場合、母の実家北条氏と妻の実家比企氏のどちらが権力を握るかという問題です。

北条氏と比企氏
北条氏と比企氏

北条時政は先手を打って、比企の棟梁・比企能員をおびき出し、殺害します。

ああっ北条の奴ら、お館さまを殺したな。許せぬと比企一族が一斉蜂起すると、これを北条の軍勢をもって攻め滅ぼしました。比企一族がかつぐ頼家の息子・一幡丸も炎に包まれて自害しました。

ところが、病にかかった頼家は比企の滅亡後、すかっと回復しました。で、気づいたら妻の実家が北条氏によってほろぼされていた。

「なんということを!」

頼家は激怒しますが、母北条政子は頼家を取り押さえ、伊豆修善寺に島流しにします。酷いと思う方もあるんじゃないですか。実の息子を島流しにする。なんと悪辣な女だと。しかしこれは政子が息子頼家を見捨てたんじゃなくてですね。むしろ守ろうとしたんです。

このままでは頼家は北条時政に殺されてしまう。ならばいっそ、島流しにというわけです。しかし、その翌年、伊豆修善寺に幽閉されていた頼家のもとに、北条時政の放った刺客がやってきて、頼家をメッタ刺しにして殺害しました。

畠山重忠の乱

このように北条氏は対抗勢力となりうる鎌倉の有力な御家人たちを次々と失脚させ陰謀により陥れていきます。比企能員の次にその標的となったのが畠山重忠です。

畠山重忠は知勇兼備の坂東武者の鏡といわれます。なかなか豪胆な人物で、源平合戦一の谷の戦の時は源義経配下にあって鵯越えを駆け下りて平家軍に奇襲をしかける際、自分の馬を背負って崖を駆け下りた、という話が伝わっています。

この畠山重忠。源頼朝の信頼を受け重く用いられましたが、北条政権下ではしだいに北条氏に疎まれていきます。1205年、謀反の疑いありと難癖をつけられ、まず六男の畠山重保が鎌倉で討たれます。

「鎌倉に異変あり」

知らせを受けた畠山重忠は、本拠地の武蔵国萱谷から一族率いて鎌倉に向かって鎌倉街道を南下。途中、北条時政の息子北条義時軍と合戦になり、数時間にわたる合戦の末、討ち取られました。

しかし畠山重忠を滅ぼしたことは北条時政にとっても命取りとなりました。息子義時は畠山重忠とは義兄弟の関係でした。父の命令によって不本意にも畠山重忠を討たせられたことに、義時は非常なショックを受けました。

畠山重忠と北条義時
畠山重忠と北条義時

「もう父でも子でも無い」

北条政子・北条義時は父北条時政をとらえ、伊豆に島流しにしました。二代執権には義時が就任し、三代将軍には頼家の弟・実朝が就任します。

次回「源実朝・北条義時」に続きます。

新発売です

先日、新発売しました。「聴いて・わかる。日本の歴史~南北朝の動乱と室町幕府」
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後醍醐天皇による建武の新政から足利高氏による幕府創設、三代将軍足利義満の時代を経て六代将軍足利義教までを語ります。今回はダウンロード版の先行発売となります。「鎌倉と北条氏の興亡」とお得なセット価格での販売は9月30日までの期間限定特価販売です。お申込みはお早目にどうぞ。

本日も左大臣光永がお話ししました。ありがとうございます。

解説ページ
http://sirdaizine.com/CD/His05.html

お申込みぺージ
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「鎌倉と北条氏の興亡」「南北朝の動乱と室町幕府」セットでお申し込み
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解説:左大臣光永

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