近藤勇の最期

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勝沼の敗北 隊の分裂

近藤勇率いる新撰組は、その名も
甲陽鎮撫隊とあらため、鳥羽伏見の雪辱戦とばかりに
江戸から甲州へ向けて出撃しました。

甲州勝沼で新政府軍と合戦となりますが、
圧倒的な兵力の前にわずか2時間で敗走。

勝沼の西、鶴瀬へ撤退します。

▼音声が再生されます▼
http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Isami06.mp3

▼前回の音声です▼
http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Isami05.mp3

板橋駅前
板橋駅前

近藤勇像
近藤勇像

再度、間道を通って甲州攻めを試みるも、これも失敗。
さらに西の吉野まで撤退します。

この間、大将の近藤は「今に援軍が来る、援軍が来る」と
言い続けましたが、いつになっても援軍は到着しませんでした。

「いい加減にしてください」
「いつになったら援軍が来るんですか!」

隊士たちは高まる不満を永倉新八、原田佐之助、
斉藤一らに訴えます。

「今日になっても援軍が来ないなら、
隊長が味方を欺いているということです。
もう我々は従えません。八王子に向かいます」

近藤勇の墓
近藤勇の墓

永倉新八が困り果てて隊士たちに訪ねます。

「では、隊長の命令に背いてお前たちは、
今後どうするつもりなのか」

「もはや援軍は無いのですから、
ひとまず江戸に戻り、兵を募ってから再度出兵するというなら、
近藤さんの指揮を受けます」

「ううむ…」

隊の秩序は、完全に崩れていました。その後、
永倉新八と原田佐之助も近藤に愛想を尽かし、
甲陽鎮撫隊を去りました。

五兵衛新田で再起をはかる

(ふん。去る者は去れ。何度でも立ち上がるまでだ)

3月13日、近藤は再起をかけて、武州足立郡
五兵衛新田(ごへえしんでん 現足立区綾瀬)の
大農家・金子健十郎邸に入り、隊士を募集します。

集まった者、227名。

近藤勇の墓
近藤勇の墓

金子邸は三千坪の大農家でしたが、227名の
兵士がごったがえし、大変なことになりました。
宿所だけでは足りず、金子家の菩提寺観音寺や近くの農家、
馬小屋も借りて兵士を泊まらせました。
兵士はよく食うので、まかないも大変でした。

この時、近藤は名を大久保大和と改め、近藤勇の名は
隠していました。家を提供した金子健十郎も、まさか
この男がかつての新撰組局長近藤勇だとは知らずにいました。

流山で出頭

4月1日、大久保大和こと近藤率いる一行は五兵衛新田を後にし、
宇都宮を目指します。会津に行くまでの、最初の足がかり宇都宮です。

五兵衛新田から西へ向かい、葛飾区新宿(にいじゅく)から
水戸街道に入り江戸川を渡って松戸を経て流山に至ります。

翌4月2日全隊士が流山に集結しました。

一方、新政府軍も宇都宮攻略をもくろんでいました。

板橋から日光街道を北上して千住に入り、
4月2日、粕壁(現春日部)に入ります。

そこへ武装集団蜂起との知らせが入り、偵察のために
一部隊が流山に向かったところ、流山の宿所では
甲陽鎮撫隊が新兵に訓練を行っていました。

「あっ!きさまら、こらっ!何をしておるかーっ」
「ひいい!」「うわああ!」

新兵たちは実戦経験の無い寄せ集めの烏合の衆です。
突然の新政府軍乱入にパニックに陥り、
散り散りになって逃げていきました。

後には250挺の銃が残されました。

流山は新政府軍によって完全包囲されます。

隊士たちは訓練のために外に出ていたところで、
本陣には近藤、土方ほか数名しか残っていませんでした。

「もはやこれまでか…」

腰刀に手を伸ばす近藤。
その手を、土方がバッと取り押さえます。

「近藤、ここで死んでどうする。腹ならいつでも切れる。
まず板橋へ行き、あくまでも大久保大和として、
潔白を訴えるのだ。よいか、新撰組はまだ負けてはいない。
俺たちの新撰組は、まだ負けてはいないのだ」

「歳…そうだな。
俺たちの新撰組は、まだ負けてはいない」

土方は近藤が出頭している間に手をまわし、
救出するつもりでいました。

板橋総督府

新政府軍が取り囲む中、近藤は2人の壮士に
警護されながら、歩み出ます。

新政府軍の面前まで来ると、
近藤は礼儀正しく刀を鞘におさめ、
新政府軍を見渡しました。

「大将の大久保大和である。今朝から
数度射撃を交えたが、菊の御旗を見て
観念した。降参いたす」

「そうか…では軍規によって
取調べをせねばならぬ。
越谷までご同行願う」

こうして大久保大和こと近藤勇は籠に乗せられ、
まず越谷の本営に連行されます。
道中、新政府軍の兵士たちはひそひそと言い合いあいました。

「あれ、近藤勇じゃねえのか?」
「えっ!まさか…」
「新撰組の近藤勇が、なんで武州に」

翌4月3日正午、板橋総督府に到着。

「わしが大久保大和じゃ。どのような罰も
甘んじて受けよう」

あくまで大久保大和を貫く近藤勇。

しかし、ここに強力な証人があらわれます。

かつて新撰組隊士であり、後に離反した
加納鷲雄(かのうわしお)と清原清(きよはらきよし)です。

2人を前にして、近藤ははっと顔色を変えます。

「近藤さん」

「……」

「近藤さんですよね」

「……」

近藤は一言も答えず、胸を張って正座していましたが、
その表情には明らかな動揺が見てとれました。

土方の奔走

その間、土方は江戸で大久保一翁、勝海舟の2人に
願い出ていました。

「近藤に罪はありません。将軍家のために。
その一心であいつは戦ったのです。どうか、どうか寛大なご処置を」

「さて、土方君はそうおっしゃるが…
どうしたもんかねえ」

勝海舟はうむむとうなって見せたものの、
近藤を助命するつもりはありませんでした。

いや、できなかったというほうが
正確かもしれません。

勝は幕府側の最高責任者として将軍徳川慶喜の身を
なんとしても守らなければいけませんでした。

そしてこの時、勝は江戸城の無血開城に向けて
薩摩の西郷隆盛と秘密裏に話を進めていました。

ここで近藤を助命して新政府軍の感情を損ねるわけには
いきませんでした。最悪の場合、怒り狂った
新政府軍が江戸になだれ込み、江戸が火の海になるかもしれません。

勝の立場上、近藤を助命することは、
どうしても、できないことでした。

近藤勇の最期

4月25日、近藤勇は板橋で斬首されます。享年35。

辞世の詩があります。

近藤は幼いころから漢詩文を学び、
特に頼山陽を愛好していました。

そんな近藤らしい、義憤あふれる詩です。

孤軍 援絶えて囚俘(しゅうふ)と作(な)る
顧(かえり)みて君恩(くんおん)を念えば 涙 更に流る
一片の丹衷(たんちゅう) 能く節に殉ず
スイ陽千古 是れ吾が儔(ともがら)

少数の軍勢で援軍も絶えてしまい、ついに捕らえられてしまった。
振り返ってわが君の御恩を思えば涙がさらに流れる。

私の真心などたかが知れているが、それでも、私の真心を尽くして、
忠節に命をささげよう。

はるかの昔、安禄山の乱の時、将軍・張巡が
スイ陽の地を死守して戦ったが、張巡こそ私の仲間だ。

他に靡(なび)き 今日 復(ま)た何をか言はん
義を取り 生を捨つるは吾が尊ぶ所
快く受けん 電光三尺の剣
只だ一死を将(も)って君恩に報ぜん

敵方におもねって、いまさら何を言おう。何も言うことは無い。
義を取り命を捨てることを私は尊ぶ。
喜んで受けよう。電光を発する三尺の剣を。
私の死をもって将軍家の恩に報いよう。

近藤勇 土方歳三 記念碑
近藤勇 土方歳三 記念碑

新政府軍の中に鬼将軍と呼ばれた土佐の谷干城(たにたてき)は、
坂本竜馬暗殺の犯人が近藤勇だと信じていました。そのため、
近藤に対して怒りをあらわにします。

「近藤を京都にて市中引き回しの末、さらし首にすべきです」

近藤の首は板橋の刑場前で3日さらされた後、
塩漬けにされて京都へ送られ、三条河原にさらされました。
その後一説には、近藤の親族が掘り起こし、生まれ故郷調布の
龍源寺に葬ったと伝えられます。

近藤が処刑されたほぼ一ヶ月後の
5月30日。

千駄ヶ谷で病の床にあった沖田総司が
静かに息を引き取りました。

土方は、さらに北へ向かいます。

解説:左大臣光永

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