元明天皇と平城京遷都
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こんにちは。左大臣光永です。強烈な日差しがギラギラと照り付ける季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか?私のほうは発送作業が一段落つき、その合間にメルマガを書いております。
さて今週金曜日(7/25)東京多摩で「飛鳥・奈良の歴史を歩く」の講演を行います。
http://sirdaizine.com/CD/AsukaInfo01.html
これにあわせて、本日は「元明天皇と平城京遷都」のお話をお届けします。
▼音声が再生されます▼
http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Heijyou.mp3
2010年は平城京遷都1300年記念ということで様々なイベントが盛り上がっていましたが、その中にも、平城宮跡の大極殿が実物大で復元されたことは大きなことでした。
私も行ってまいりましたが、広々とした中にデーンとそびえる大極殿の存在感には圧倒されました。私が行ったのは風が強い日だったので、大極殿の庇からぶらさがっている鈴のような飾り物(?)が風に吹かれて、ガランガラン鳴っていたのが、いい雰囲気でした。
【復元された大極殿】
【復元された朱雀門】
文武天皇から元明天皇へ
8世紀のはじめ。
女帝・元明天皇(げんめいてんのう)は幼名を阿閉皇女(あへのひめみこ)といい、38代天智天皇の第四皇女としてお生まれになりました。草壁皇子にとつぎ、軽皇子(かるのみこ)後の文武天皇を生みました。
軽皇子は祖母の持統天皇からの譲位を受けて文武天皇として即位しましたが、父と似て病弱でした。慶雲3年(707年)25歳の時病にかかり、病の床で母阿閉皇女におっしゃることに、
「母上、私は体が弱いのです。お暇をもらって、静養したく思います。どうか天皇の位は、母上がお継ぎください」
「そんな、弱気をおっしゃるものではありません」
「これは天皇としての勅命です」
「そんな…私にそんな大役、無理ですよ…」
などというやり取りがありましたが、翌年の慶雲4年(708年)文武天皇は25歳の若さでお亡くなりました。母阿閉皇女は仕方なく息子である先帝の志を汲んで、即位します。43代元明天皇です。
(はあ…これから、どうすればよいのかしら)
藤原京の大極殿で、華々しく即位式を執り行ったものの、最愛の息子をつい先日亡くしたことであり、元明天皇のお気持ちはすぐれませんでした。
その傍らには、右大臣藤原不比等の姿がありました。
「帝、何も心配はございません。この不比等にお任せください」
「おお不比等…これから、よろしく頼みますよ」
平城京遷都
和銅3年(710年)3月。元明天皇のもと、都を藤原京から平城京に遷します。
『続日本紀』にはごく簡単に「はじめて平城京(ならのみやこ)へ遷都した」とだけ記されていますが、これは大変なことです。
遷都は右大臣藤原不比等が中心となって行われました。
「陛下、藤原京はまわりを大和三山に囲まれ、地の利が悪いです。
今こそ都を遷しましょう」
「そうか不比等。そのほうがそう言うのであれば、そういたしましょう」
なぜ藤原京を棄てて、平城京へ遷都したのか?
理由は諸説あって、わかりません。
藤原京が狭くなったのでより広い平城京へ遷都することになった。昔はそのように言われていましたが、最近の発掘調査で、むしろ藤原京は平城京よりも広かったことがわかってきました。
なので、「藤原京が狭くなったので平城京に遷った」という説はあたりません。
また藤原京は「天子南面す」という中国の思想にそぐわないから、という説もあります(『易経』「聖人南面而聽天下」)。
「天子南面す」
すなわち中国では、天子たるもの、北の高くて乾燥した場所に内裏をさだめ、南を向いて天下を収めるべきだという思想です。皇帝を北極星にみたてた考えだとも言われます。
「天子南面す」の思想からいくと、藤原京の内裏はたしかに北のほうにあり「南面」してはいましたが、藤原京は南が山であり、南が高く北が低いです。都の中央を斜めにつらぬく飛鳥川は、南から北に流れています。
天子が南面していない。これでは具合が悪いということで遷都した…これも一つの説です。
また701年に「大宝律令」が制定され、律令国家としての礎が整いつつありました。そのため律令国家にふさわしい新しい都を求めたとか、首皇子(おびとのみこ)…後の聖武天皇が天皇として華々しくデビューする舞台を整えるためとか、いろいろな説があります。
それにしても、末永く都として使ってほしいとの、持統天皇の願いがこもった藤原京をわずか16年で棄てて、遷都するのでした。藤原京に名残惜しさを感じていた者も多かったと思います。
都遷り。
一言でそう言うほど、カンタンなことではありませんでした。
藤原京の寺院や館を解体して、材木の状態にまでバラして、車にのせて、ひっぱっていくのです。の皇太子首皇子(おびとのみこ)(10歳)の乗ったお輿の横を、馬にまたがった右大臣藤原不比等が進みます。
「不比等よ、新都まではどれくらいかかるのじゃ」
「皇太子さま、藤原京から下ツ道(しもつみち)を
北へまっすぐ向かえば、平城京の羅城門です。
昼前にはつくでしょう」(約15キロ)
【藤原京と平城京】
首皇子のお輿の前後にはたくさんに馬に乗った警護の者が続き、一向は半日かけて奈良の朱雀大路の南の果て、羅城門に到着しました。
【平城京】
「うわあ。大きな門だねえ」
「ここを、多くの人々が出入りすることになるのです」
目を閉じると、やがてそうなるであろう、平城京の都のにぎわいが、まぶたの裏にうかぶようです。
羅城門をくぐって、さらに驚く首皇子。
ずぁーーーーっとはるか向こうまで約3.8キロメートルの距離を伸びる朱雀大路。
道幅も80メートルを超える広いものです。どの館も、まだ建設中ですが、これらが完成すれば、どんなにか華やかになるかと、想像するに十分でした。朱雀大路を境に、東を左京。西を右京とします。
「すごいねえ。気分がいいねえ」
さああと吹き抜ける心地よい風に、目を細める首皇子。後の聖武天皇。
朱雀大路の果てには朱雀門があり、朱雀門のむこうは天皇のすまいや政治の舞台となる大内裏。大内裏の中は天皇のすまいである内裏、正月儀式などが行われる朝堂院、その中心には大極殿という建物がありました。
また平安京や藤原京にはない平城京だけの特色として、「外京」とよばれる張り出し部分が東にありました。ここには興福寺や、飛鳥から移築された元興寺(飛鳥寺)が建てられました。
現在、奈良市役所では平城京の復元模型を見ることができます。朱雀大路の大きさ、圧倒的な存在感には、驚かされます。
平成22年。
平城遷都1300年記念事業の一環として、平城宮跡に第一次大極殿の実物大が復元されました。広大な広場にたたずむ大極殿を前に、天平文化のロマンにひたることができます。奈良を訪ねた際には、ぜひ行ってみてください。
いただいたお便りより
こんばんは
先日は百人一首をダウンロードさせていただき、ありがとうございました。
この春 高校に入学しカルタ部に入った娘が「自宅で練習するために百人一首の朗詠
CDが
欲しい」と言って探していたところ、貴殿のダウンロード先を見つけ 早速
利用させていただきました。娘の腕もめきめき上がってくれることと思います(願い~~~!!)
ありがとうございました。
こちらこそありがとうございます。
娘さんの練習のお役に立てればさいわいです。
本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。