頼朝・義経の対立

義経の没落

頼朝が東国武士たちを支配していく中、頼朝がもっとも懸念したことは配下の武士たちが独自に朝廷から官職をさずけられることでした。つまり、武士たちが京都の朝廷と独自に結びつき、頼朝との主従関係が薄れてしまう。これを頼朝は忌み嫌ったのでした。

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あくまでも官職は頼朝が朝廷から下され、それを配下の武士に分配する、という形であらねばなりませんでした。しかし御家人たちにとっては、その仕組みは理解されがたく、武士が官職を得られないのは困ります。頼朝が「ダメだ」といっても、武士たちが独自に任官することは、現実として、避けられるものではありませんでした

そこで頼朝も妥協し、任官自体は許したものの、「任官中は朝廷の仕事に励むべきだから、東国に戻ってきてはならない」という決まりにしてしまいます。任官した者を鎌倉から追い出すことで、任官をさせないように、歯止めをかけたのでした。

そして、任官した者たちへの感情的な悪口を頼朝は書き綴っています。「目は鼠のようだ」「しわがれ声でみっともない」など、子供の悪口かよという、ひどい内容です。いかに頼朝が配下の御家人たちが独自任官することを嫌ったかが、その文面にはあらわれています。

こんなにも頼朝が嫌っていた御家人の独自任官を、平然とやってしまった者があります。

弟の義経です。

義経は一の谷の合戦後、京都周辺の治安維持にあたっていましたが、その頃、後白河法皇から左衛門尉・検非違使に任じられていました。これは、頼朝には許しがたいことでした。新政権の秩序を乱すことで、とても容認できないことでした。

しかしさしあたって平家追討の戦に義経が必要であり、処分は先送りになっていたのでした。

平家滅亡後、頼朝・義経兄弟の不仲は表面化します。1185年5月、義経は生け捕りにした平宗盛父子をともなって鎌倉へ入ろうとしましたが、途中、腰越で先をはばまれ、宗盛父子だけをそれから先は鎌倉へ入れることになり、義経は腰越の地にとどめられました。

そこで義経が身の潔白を切々と訴えたのが有名な腰越状です。神奈川県腰越鎌倉市満福寺には武蔵坊弁慶が書いたという腰越状の下書きが展示されています。

しかし誠意を尽くした腰越状も頼朝の心を動かすことはなく、返事は一言「追って沙汰する」だけでした。義経はむなしく京都へ追い返されます。

その後も兄頼朝との対立を深めた義経は、10月、後白河法皇に源頼朝追討の院宣を要請し、これを下されます。もはや兄でも弟でもない。朝敵頼朝を討つ!義経は京都で叔父の行家とともに挙兵します。

しかし頼朝に個人的な恨みがあるわけでもない西国の武士たちは、ほとんど義経に従いませんでした。

頼朝は義経のもとに刺客・土佐坊昌俊を差し向けますが、義経はこれを事前に察知し、撃退します。しかし、義経に従う者はわずかで、とても頼朝と戦などかないませんでした。義経はほどなく没落し、奥州の藤原秀衡をたよって落ち延びます。

頼朝、後白河法皇に詰め寄る

「義経挙兵」

その知らせを受けた時、頼朝は鎌倉雪の下の勝長寿院の会堂供養の真っ最中でした。勝長寿院は父義朝の菩提をとむらうため頼朝が建立した寺院です。その勝長寿院で、頼朝は義経そむくの知らせを聞いたのです。

「うむ。すぐに出陣じゃ」

頼朝は三千騎を率いて黄瀬川まで進めたところ、義経軍が自滅した報告を受けます。「そうか…九郎が」くしくも黄瀬川は、頼朝・義経兄弟が生まれて始めて出会った場所でした。あの時は兄弟手を取り合って平家を倒そうと誓い合ったのに、こんなことになってしまった…頼朝としても、さまざまな思いがあったことでしょう。

ともかく義経は滅びました。しかし、義経に頼朝追討の院宣を下した後白河法皇を見逃すわけにはいきませんでした。すぐに頼朝は北条時政に1000騎を与えて上洛させ、後白河法皇に問いただします。

「頼朝追討の院宣を下したとのことですが、いったいどういう真意ですか」
「いや、真意もなにも。そんなことは間違いである。院の真意ではない」

臆面もなく言い訳する後白河法皇に、頼朝の怒りが爆発します。

「日本一の大天狗めが」

そう言って頼朝は後白河法皇に厳しくつめよったと、伝えられます。
その後も頼朝はたびたび後白河法皇に使いを送り交渉します。

文治勅許 守護・地頭の設置

その結果、義経捜索のために各国に守護を置くこと。
各荘園・国衙領に地頭を置くこと。
それらを頼朝が管理することを朝廷に認めさせました。

これを文治勅許といいます。

守護・地頭の名目は逃亡した義経の捜査でしたが、
その真の目的は、頼朝の支配権をみとめさせることにありました。

以後、頼朝配下の御家人たちは、合戦で勝利すると、
所領を(地頭職 じとうしき)として頼朝より保障され、
地頭に任じられました。

こうして武士たちは頼朝のもとで土地の所有を
保障され、いよいよ頼朝との結びつきをつよめていったのです。

北条政子と静御前

解説:左大臣光永

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