平家滅亡

一の谷の合戦

義仲をやぶって入京をはたした範頼・義経軍に、さっそく平家追討の院宣が下されます

いったんは九州大宰府までおちのびた平家一門でしたが、勢力を挽回し、福原までもどってきて京都奪還をもくろんでいたのでした。

範頼・義経両軍は今回も二手にわかれ、範頼軍は東の生田の森から、義経軍は西の一の谷から攻撃をしかけます。

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この時、義経が背後の崖から一気に全軍でかけおり、奇襲をしかけた逆落としが有名です。義経の奇襲により虚をつかれた平家軍は海上にのがれ、四国讃岐の屋島(現香川県高松市)へ落ち延びます。

ここで範頼・義経軍はすぐに追撃をしかけたいところですが、できませんでした。船と人員が足りなかったのです。

そこで頼朝は屋島の直接攻撃をあきらめ、
中国・九州を支配下に置き瀬戸内海の制海権を奪い
屋島を無力化するという大規模な作戦に出ます。

1184年元暦元年9月頼朝は弟の範頼に1000騎を与え
九州に向かわせます。なんとか九州へわたるも、
平家方の原田種直の反撃にあい、戦線はこう着状態となりました。

無断任官

一方紀伊半島では元暦元年(1184年)7月、
伊賀・伊勢両国で平家の残党が反乱を起こします。

義経は頼朝からこの反乱鎮圧を命じられ、1週間あまりで鎮圧します。
「三日平氏の乱」とよばれる事件ですが、この事件の後、後白河法皇は
義経を院の御所に召して、
「こたびの働き、見事であった。よって
そのほうを検非違使・左衛門尉に任ずる」
「ははっ!」
この時義経は頼朝に無断で、
直接法皇から位を授かりました。

しかも、検非違使といえば京都の治安維持にあたる役職です。
義経が検非違使に就任するということは、鎌倉からはなれて、
京都にあって後白河法皇との結びつきを強めることを意味していました。

これも頼朝には許しがたいことでした。

しかし義経はそんなことは考えず、さらにマズイことをしでかします。
「九州に向かった兄範頼が苦戦していると聞きます。
私に平家追討をお命じください」
頼朝を通さずに直接後白河法皇に願い出て、
義経は平家追討の院宣を下されます。
これを知った鎌倉の頼朝は怒りにふるえます。
「うーむ九郎…なんたる勝手!」
しかし西国の戦況は膠着状態にあり、
さしあたっては義経の戦の腕を利用する他ありませんでした。
1185年(元暦2年)正月10日、
義経軍は平家追討のため京都を発し西国へ向かいます。

平家滅亡

元暦2年(1185年)正月8日、源義経は院の御所に
平家追討を奏上します。
「今や平家は神にも君にも見捨てられ
浪の上に漂う落人の群です。
今こそ平家一門を攻め落としましょう」
「うむ。夜を昼についで、勝負を決すべし」

後白河法皇は義経に平家追討の院宣を下します。
こうして、

元暦2年(1185年)正月8日
義経は平家追討のため、京都を発って西国へ向かいます。

文治元年(1185年)2月。
義経の奇襲により屋島が陥落。

翌3月24日。ようやく回復した範頼軍も加わって平家を
長門国壇ノ浦に攻め滅ぼしました。

しかし三種の神器のうちの一つ草薙の剣は
海に沈んでしまい、安徳天皇も二位尼時子とともに
入水自殺を遂げられました。

その後、頼朝は捕虜となった平重衡と平宗盛を
あいついで鎌倉に連行させ、尋問します。

本来、彼らは朝廷によって処分されるべき存在でしたが、
頼朝は朝廷の処分より先に彼らを鎌倉に連行させたのです。

頼朝の平家一門に対する怨念がここに
うかがい知れます。

平治の乱で父義朝と弟たちを殺されたことの
復讐は、四半世紀を経て、ついに遂げられたのです。

つづき 頼朝・義経の対立

解説:左大臣光永

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