民衆を導く行基

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近鉄奈良駅の行基像
近鉄奈良駅の行基像

平城京遷都

和銅元年(708)藤原不比等のもと平城京遷都が決まりました。和銅3年(710)3月10日、遷都しました。


平城宮阯 復元大極殿

大宝元年(701)には大宝律令が制定され、律令国家のいしずえが作られていました。その一方で民は税を搾り取られ、飢饉や疫病、貧困に苦しんでいました。

税をおさめるには自腹を切って都まで往復しないといけないので、その途中で食料が尽きて、餓死する者もありました。また労役がキツすぎて逃亡する者も相次ぎました。

それに加えて、平城京への遷都です。民衆の税負担・労役負担は増し、いよいよ暮らしは苦しくなりました。

行基への弾圧

その頃平城京では辻辻で行基が仏教の教えを説いていました。ワイワイと人だかりができている中、行基が話し始めます。

「えー、みなさんね、人間何が悪いって人と比べる。
これは毒ですな。たとえばね、隣ではいい食事をしている。
いい衣を着ている。それに比べてうちは何。
亭主の稼ぎが悪いせいだわ。キーッ。
そこは、しかし、まあ、よそはよそ。うちはうち。
旦那さんいたわってやってください」

そんな感じだったかわかりませんが、

『続日本紀』には、

都邑に周遊して衆生を教化(きょうけ)す。道俗、化(おもぶけ)を慕ひて追従(ついじゅ)する者、動(やや)もすれば千を以て数ふ。所以(ゆく)の処、和尚(わじょう)来るを聞けば、巷に居(お)る人なく、争い来たりて礼拝(らいはい)す。器に随ひて誘導し、ことごとく善に趣かしむ。


時の人、号して行基菩薩と曰ふ。留止する処に皆道場を建つ。其の畿内に凡そ四十九処、諸道にもまた往々にして在り。

『続日本紀』天平勝宝元年二月二日の条(行基菩薩伝)

都市を歩き回って衆生を教え導く。出家している人もしていない人も、行基をしたって追従する者は、どうかすると千人にもなる。行く所、行基が来るのを聞くと、巷に家にいる人はなく、争い来て礼拝する。その人の素質・性質にしたがって教え導き、だれもを善におもむかせる。

当時の人は、号して行基菩薩とよんだ。行基はとどまった処に皆道場を建てた。その数は畿内におよそ四十九箇所、全国にもまたあちこちにある。

たいへんな人気だったのです。

ついに政府から目をつけられます。

「やめいやめい、このような集会は認められておらぬ。解散!解散!」

「なによ、お役人なんて、いばるばっかりで、私たちに何してくれたんよ」

「そうだそうだ。追っ払え!」

ヒュンヒュン

ごち、ごち

「わ、こらお前ら、やめろ」

「行基さまをまもれ!」

「皆さん、落ち着いて。石を投げてはなりません」

「おのれ小僧行基!民をたぶらかしおって」

平城京遷都7年後の養老元年(717)4月23日の詔に、行基を名指しで非難してあります。「小僧行基」と。時に行基30歳。

しかしこれだけのキツいことを言われてるのは、それほど行基の民衆に対する影響力が、大きくなっていることを示しています。

出生

行基は天智天皇7年(668)、天智天皇が大津京で即位した年に、河内国(後、和泉国に編入)大鳥郡蜂田里(はちたのさと)(現堺市・高石市)に生まれました。父は高志才智(こしのさいち)。母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)。

父母ともに渡来人の家系です。父は百済から渡来した王仁氏の一派・書首氏(ふみのおびとし)のさらに一派である高志氏。書首氏は蘇我氏のもと、代々の朝廷に政治・財政などで仕えました。

母は百済渡来の蜂田薬師(はちたのくすし)に連なる家系といわれます。生まれたのは母方の実家・蜂田郷で、後に行基がこの地に寺を建て家原寺(えばらじ)としました。

出家

壬申の乱の時、行基は五歳でした。何の記憶もありません(たぶん)。壬申の乱に勝利して天武天皇が即位し、天皇中心の律令制国家の礎が整えられていきます。

天武天皇11年(682)行基は15歳で出家しました。場所は大和の元興寺(飛鳥寺)と思われます。持統天皇5年(691)14歳で葛城山(かづらぎさん)の高宮寺(たかみやでら)で徳光禅師より受戒。それに前後して元興寺(飛鳥寺)の道昭のもとで法相教学を学びました。

道昭は宇治橋をかけたことで知られ、仏教の伝道と社会事業を結びつけて考えた人でした。後年、行基が橋や池をつくったり社会事業を通して伝道したのは、師の道昭の影響と思われます。

民間伝道へ

文武天皇4年(700)師の道昭が飛鳥寺の禅院で亡くなりました。道昭の死後も行基はしばらく山にこって修行していたようですが、

慶雲2年(705)山を下りました。はじめ大和国添下郡(そえじもぐん)、その後平群(へぐり)郡生駒(いこま)に住むようになりました。

そこで行基は重税や労役に苦しむ庶民の姿を見ます。

(これはひどい…何とかせねば)

行基は高志氏という中流豪族の出であり、師の道昭を通じて、学問や仏教に造詣がありました。国家に伝える公務員僧侶となることもできました。しかし行基が選んだ道は違いました。行基は民間伝道をえらびました。

社会事業

また行基は有名なことに、各地で社会事業を行いました。

橋をかけ、池・堀・溝を掘り、道路を作り、布施屋…旅人に食料などをふるまう施設を築き、道場…寺を築きました。行基の説法をききに集まった人たちは積極的にこれら社会事業に手を貸しました。

みずから弟子らを率ゐて諸(もろもろ)の要害の処に於いて橋を造り堤を築くに、聞見の及ぶ所は、ことごとく来りて功を加え、不日にして成る。

『続日本紀』行基菩薩伝

行基はおそらく、師の道昭から土木工事の技術を学んで身につけていたと思われます。

政府の宥和政策

はじめ、政府は行基とその教団を取り締まりました。しかし14年後の天平3年(731)の詔では、ようすが違ってきます。行基45歳の時です。

詔して曰く。比年(このごろ)、行基法師に随逐する優婆塞・優婆夷らの法の如く修行する者の、男の年六十一以上、女の年五十五以上は、ことごとく入道を聴(ゆる)す。

男は六十一以上、女は五十五以上は僧になってよしとしています。

大幅な譲歩です。

何があったんでしょうか?

一つは行基が弾圧を受けても伝道や社会事業をやめなかったこと。

一つは行基のつくる布施所や用水施設は農民だけでなく政府のためにもなっていたこと。

長屋王から藤原四兄弟の時代へ

もうひとつは時代の変化です。

養老4年(720)長年権力をふるってきた藤原不比等が亡くなります。かわって高市皇子の子・長屋王が政権を握ります。

長屋王は藤原氏が政治に口出しするのを嫌いました。不比等の四人の息子(武智麻呂・房前・宇合・磨呂)は妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てたいと画策していました。しかし長屋王は皇族出身以外が皇后に立つのは大宝律令に違反していると正論をいってゆずりませんでした。藤原四兄弟にとって長屋王は目の上のたんこぶになってきました。

神亀6年(729)2月、長屋王は突如、謀反の疑いをかけられます。藤原宇合らが軍勢を率いて長屋王の館を包囲します。長屋王は自害に追い込まれました。いわゆる長屋王の変です。

長屋王邸跡(現ミ・ナーラ)
長屋王邸跡(現ミ・ナーラ)

こうして邪魔者・長屋王を排除すると、藤原四兄弟は晴れて政権の座に躍り出ました。8月に改元あって天平元年。長屋王を倒したことを世間にごまかすため、ことさら天平、などというめでたい元号で飾りました。ほどなく妹の光明子を聖武天皇の皇后に立てます。これで四兄弟は聖武天皇とも親戚ということになり、いよいよ藤原氏の春到来といった雰囲気がありました。

こうした中で、藤原四兄弟は宥和政策の一貫として、行基とその集団に対する弾圧を緩めたと思われます。

藤原四兄弟の死

しかし藤原四兄弟の政権は10年と持ちませんでした。天平7年(735)九州からはじまった天然痘の流行は都により四兄弟すべてが死にます。

藤原四兄弟の死後、政治の実権は橘諸兄が握りました。

行基教団の活用

天平13年(741)より恭仁宮(くにのみや)の造営が始まりました。畿内を中心に多くの人員が徴収され、都づくりに駆り出されます。


恭仁宮跡(山城国分寺跡)

前年の藤原広嗣の乱につづく、急な都づくり。しかも飢饉や疫病が流行している中です。なんでこんな時期に…ぶつぶつ…人々の不満は高まりました。

聖武天皇の下、実際の政権運用にあたったのが橘諸兄(たちばなの もろえ)です。

橘諸兄は必死でした。どうしても恭仁宮の造営を押し進めないといけない。そこで目をつけたのが行基の教団です。

四半世紀にわたる弾圧に耐えた行基の精神力。教団の結束力。すばらしい。これを活用しない手はない。橘諸兄はそう考えたようです。

そこで、賀世山(鹿背山。かせやま。京都府木津川市)の東の川(木津川。旧泉川)に橋を作らせました。7月に着工して10月に完成しました(『続日本紀』天平13年10月16日条)。


木津川(泉川)

畿内および諸国の優婆塞(出家しないで戒を受けたもの)を徴収し工事にあたらせ、工事がすすむにつれて750人を得度させたとあります。おそらくこの750人の中に、行基の信者が多くふくまれていたと思われます。

沢田川
袖漬くばかり 浅けれど
はれ
浅けれど
恭仁の宮人 高橋わたす
あはれ そこよしや

と、催馬楽(さいばら)に歌われています。沢田川(木津川=泉川の部分名?)は袖がひたるほど浅いのに、恭仁宮の役人どもは高い橋を渡していると。つまり政府主導の工事はうまくいっていないとバカにしてます。そして、政府主導の工事がうまくいってないからこそ、橘諸兄は、民間の力に頼ったのでしょう。

しかも話は恭仁宮の造営だけに終わりませんでした。

聖武天皇は全国に国分寺・国分尼寺を造営する詔を出し、さらに離宮として近江国紫香楽宮の造営をはじめました。民衆の負担は増すばかりでした。

大仏造営の詔

天平15年(743)10月15日(16日)、聖武天皇は四回目の紫香楽宮行幸中、「大仏造営の詔」を出します。

「国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏殿を建て、広く仏法を広め、これを朕の智識(仏に導くための働き)としよう。…天下の富を持っているものは朕である。天下の権勢を持っているのも朕である。この富と権勢をもってすれば大仏を作ることはたやすい。しかし、それでは願いが成就するのは難しい。…一枝の草、一にぎりの土であっても助力したいものはこれをゆるす」

聖武天皇が大仏を造りたいと思い立ったのは、これに先がける天平12年(740)2月、難波宮に行幸した際、河内国知識寺の盧遮那仏を見て、気に入ったためです。自分も造りたいと思ったのです。

河内国知識寺は今は廃寺になっており、大仏といってもどんなものだったか不明です。

それにしても恭仁宮・紫香楽宮というふたつの宮を同時進行で造り、全国に国分寺・国分尼寺を建て、さらに大仏まで造るというのです。予算はどこから持ってくるつもりでしょうか。

10月16日、東海道・東山道・北陸道、三道の25カ国の今年の租庸調(税)をすべて紫香楽宮に集めるよう命令しました。いよいよ紫香楽宮で大仏造営にとりかかるための準備でした。

10月19日、聖武天皇は紫香楽宮に行幸。大仏を建立するため甲賀寺(こうかでら)の土地を開きました。またこの時、行基が弟子たちを率いて民衆に参加するよう呼びかけたとあります。


甲賀寺跡(滋賀県信楽 内裏野地区)

行基と大仏のかかわりが初めて書かれた『続日本紀』の重要な記事です。時に行基76歳。

橘諸兄は前々から行基とその信者たちの結束力と働きを買っていました。各地に道場や施設を作ることは政府の利益にもなっていました。それで、今回も行基に協力を持ちかけたのでしょう。

「俺たちを今までさんざんいじめてきた政府に!
協力するのかよ!」

「まあ、そう言うな。行基さまがおっしゃるんだから」

「そうだよ、俺たち今まで行基さまにお世話になってるじゃないか」

おそらくそんな感じだったでしょうか。

行基の信者たちは政府に協力することは抵抗を感じたかもしれませんが、行基への信頼感によって、協力したのだと思います。

行基大僧正

天平17(745)正月21日、行基は聖武天皇より大僧正に任じられました。僧として最高のほまれです。行基は78歳になっていました。

ただ行基自身は特に何も思わなかったようです(『大僧上舎利瓶記』)。「弾圧されていたのが今や大僧正さまか…どうもこういうのは苦手だよ」といったところだったでしょうか。

この間、いろいろあって、都は恭仁宮から難波を経て、紫香楽宮へ、さらに平城京へ戻っていました。

行基、大仏造営事業に組み込まれる

大仏造営は平城京の金鐘寺(こんしゅじ)の地で再開されます。金鐘寺は後の東大寺です。いつ金鐘寺から東大寺に名前がかわったのか、正確な時期はわかりません。

天平17年(755)8月23日、聖武天皇は自ら袖に土を入れて運びました。光明皇后および役人たちも土を運び、大仏の御座を固めました。

行基は大仏造営という国家プロジェクトには組みこまれました。信者たちを率いて、大仏造営の費用を勧進してまわりました。その一方で、平城京遷都の天平17年(755)の一年間だけでも摂津国難波に5つも道場(寺)を建てています。

天平17年(755)9月29日、大仏の鋳造が始まりました。

入寂

しかし行基は大仏がまだ完成しない天平21年(749)2月2日、平城京右京の菅原寺(現 喜光寺)東南院で亡くなりました。享年82。

遺体は信者たちによって生駒山で火葬に付されました。墓は現在、奈良県生駒市の竹林寺(ちくりんじ)にあります。

行基四十九院と土木事業

行基は生涯四十九の道場を建てました。摂津に15。和泉に12。山背に9。大和に7。河内に6。「行基四十九院」として伝わってます。

道場とはようするに寺ですが、その中には堂々たる伽藍を持つ本格的な寺もあれば、民家を改造しただけの簡易施設もあったと思われます。『続日本紀』に「寺」ではなく「道場」と書かれているのはそのためでしょう。

現在、行基の建てた道場がもととなった寺は大阪に六・奈良にニ・京都に一・兵庫に一の十院があります。

大阪
久衆園院(枚方市楠葉)
華林寺(堺市八田寺町)
家原寺(堺市家原町)
大野寺(堺市土塔町)
高倉寺(堺市高倉台)
久米田寺(岸和田市池尻町)

奈良
喜光寺(奈良県菅原町)
竹林寺(生駒市有馬町)

京都
泉橋寺(相楽郡山城町)

兵庫
昆陽寺(伊丹市寺本)

また行基は畿内各地で橋・池・溝・用水施設など土木事業を行い、民衆の暮らしをよくしました。木津川にかかる泉大橋(近くに泉橋寺)、大阪府岸和田市の久米田池(近くに久米田寺)、兵庫県伊丹市の昆陽池(こやいけ)(近くに昆陽寺)、大阪府狭山市の狭山池は今も見ることができます(もちろん行基の時代から何度も作りかえられていますが)。

また現存はしませんが、淀川にかかる山崎橋、高橋大橋、兵庫県宇治郷の大輪田船息(おおわだのふなおき)も歴史的に重要なものです。船息とは港です。後に平清盛が整えて大輪田泊(おおわだのとまり)となったことで有名ですね。

大仏開眼会

天平宝字4年(752)4月9日、大仏開眼供養の儀式が開かれます。天平15年(743)に発願してから9年目のことでした。すでに娘の孝謙天皇に位を譲っていた聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇以下、高位高官が並び、華やかな儀式でした。

奈良の大仏
奈良の大仏

行基が生駒山に埋葬されて、三年目のことでした。式典には行基の弟子・景静が参加しました。

つづき 大仏建立

解説:左大臣光永

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