僧兵の強訴

こんにちは。左大臣光永です。

先日、豊島区の新しい庁舎に行ってきました。
9階までが豊島区の庁舎で、さらに上の階はマンションになってる巨大な建物です。
吹き抜けのアトリウムが無駄に派手で、コメントに困る感じでした。
雑司ヶ谷霊園の横にこんなドデかいビルができるとはビックリです。

さて本日は「僧兵の強訴」という話です。
「強訴」とは主に12世紀以降、延暦寺や興福寺の僧兵たちが
都に大挙しておしかけ、無茶な要求を押し通したことを言います。

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仏教と神道、上皇と天皇、源氏と平氏、
天皇家と摂関家…

さまざまなことを考えるきっかけともなる
面白い話題です。本日も物語風に語っていきます。

神木の入洛

「強訴だーーっ」
「強訴だーーーっ!!」
「逃げろ~~ッ」

寛治7年(1093年)興福寺の僧兵たちが、
春日社の御神木を掲げて京都に乱入しました。

ざざっ、ざざっ、ざざっ、ざざっ、

「どけどけーーーっ、畏れ多くも、
春日社の御神木なるぞーーーっ」

御神木とは、榊の枝に春日社の御神体である神鏡をさげ、注連をかけたものです。

裹頭(かとう)とよばれる布で顔を覆い、
長刀や太刀を持ち、鎧に法衣を着た異様ないでたちは、
平安京の市民を恐怖させる十分でした。

しかも迷信深い時代のことですから、
僧侶にさからえば、仏罰が当たると信じています。

彼らは、院の近臣・近江守高階為家が
近江国内の春日社の神人に対して乱暴を働いた件につき、
高階為家の流罪を要求してきたのでした。

「近江守高階為家を、流罪にしろーーーッ」
「でなければ、都を荒らしまくるぞ」

おそらく高階為家は近江の春日社の荘園に対し
白河上皇のすすめる荘園整理令にもとづき高圧的な態度に出たために、
荘園を管理する春日社の神人との間でトラブルになったものでしょう。

春日社は藤原氏の氏社。興福寺は藤原氏の氏寺ということで、
古くから春日社と興福寺は結びつきが強かったのですが、
神仏習合が進むにつれ、春日社と興福寺は一体化していきました。

そのため、春日社の神人がはずかしめられた件で、
興福寺の悪僧がくりだしてきたのです。

「上皇さま、悪僧どもが都で乱暴しています」
「うう…致し方ない…」

結局、白河上皇は僧兵たちの要求を呑むほかなく、
高階為家は土佐へ流罪となりました。

神輿の入洛

そして2年後の嘉保2年(1095年)には…

「どけどけーーーっ、
畏れ多くも、日吉社の御神輿なるぞーーーっ」

「ひ、ひいいーーっ。今度は延暦寺だあ」
「巻き込まれると、ロクなことにならん」

比叡山の大衆(僧兵)および日吉社の神人(じにん)が、
日吉社(ひえしゃ)の神輿(しんよ)を掲げて平安京に乱入します。

日吉社は比叡山のふもと東坂本にあり、
延暦寺開祖最澄のころから延暦寺とは結びつきが強い神社です。
現在では「ひよしじんじゃ」と呼びます。

今度の要求は、美濃国で延暦寺の大衆を射殺した、
源義綱(みなもとのよしつな)を処分せよというものでした。

「うぬぬ。思い通りにさせてなるものかァ。
悪僧どもを、鎮圧せよ」

「御意」

時の関白藤原師通(ふじわらのもろみち)は、
源頼治(みなもとのよりはる)をもって鎮圧に向かわせました。

ここは賀茂の河原。

「止まれーーーッ悪僧ども。
それ以上は進むな」

「なにをッ貴族の番犬風情が。
これを何と見る!畏れ多くも
日吉社の御神輿おぉーーーッ!!」

「それがどうした!」

ひょう、ひょうひょう

どすっ、どすどすっ

「がはっ!神輿に矢が!
そのほう神罰・仏罰を怖れるのか!」

「罰が当たるというなら、お前らのような
クソ坊主にこそ当たるべきである」

びょう、びょうびょう

どすっ。ぎゃあ、どすっ、ぎゃひーーーー

源頼治らは、容赦なく延暦寺の悪僧たちを射殺しました。

「退けッ、退けーーーッ」

いかな武装しているといっても、戦をなりわいとする武士に
本気で攻撃されたら、僧侶がかなうはずはありませんでした。
延暦寺の悪僧・日吉社の神人どもは
蜘蛛の子を散らすように逃げていきます。

しかし、3年後の承徳3年(1099年)。

時の関白師通(もろみち)が悪瘡をわずらい38歳で急逝します。

「神輿に矢を放った罰じゃ…」
「やはり、あれはまずかった」

結局、下手人の源頼治を佐渡に流すこととなり、悪僧どもを
いよいよつけあがらせる結果となりました。

三不如意・山階道理

このように僧兵や神人が神輿や神木をかかげて都へ大挙して押し寄せ、無茶な要求を強引に押し通そうとすることを強訴(ごうそ)といいます。

白河・鳥羽・後白河の三代の院政期に僧兵の強訴は60回を数えました。
室町時代までを数えると実に240回に及んだといいます。

「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、是れ朕が心に従はざる者」

ついには白河法皇をして、そう言わしめました。
いわゆる「三不如意」として有名ですね。

「いみじき非道の事も、山階寺にかかりぬれば、又ともかくも人ものいはず」

どんな無茶も、山階寺(興福寺)の僧兵にかかれば、
もう誰も何もいえなくなる。
これも白河法皇のお言葉として伝わっています。
いわゆる山階道理というものです。

3代にわたって院政を行い、法と慣例を無視して絶対的な権力をふるった白河法皇も、僧兵にだけは手を焼いたのです。

「僧兵」「大衆」「衆徒」「堂衆」「悪僧」どう違うか?

ところで歴史の本を読むと、僧兵のことを
「大衆」といったり「衆徒」といったり「悪僧」といったり、
いろいろな呼び方をしています。

何が違うのでしょうか?

「僧兵」という言葉は江戸時代にあらわれたものです。
武士が特権階級となったことにより、
武士で無いものが、まして僧侶が武装するなどけしからん
という意味で「僧兵」という言葉が生まれました。

中世の史料には「僧兵」という言葉はなく
「大衆(だいしゅ・だいしゅう)」「衆徒(しゅうと・しゅと)」
「堂衆(どうしゅう・どうしゅ)」「悪僧」などと、
いくつかの呼び方が見られます。

当時の大寺社には学問・修行を専業とする上級の僧侶…「学生(がくしょう)」「学侶(がくりょ)」という者たちがいました。彼らはまた「大衆」「衆徒」とも呼ばれました。

彼ら上級僧侶はあくまで学問・修行を専業にするので、食事も作らず掃除も洗濯もしません。だから、世話役の下級僧侶が必要でした。それが「堂衆」です。

「堂衆」は多く寺社の管理する荘園の出身者で身分が低く、童子(どうし)・中間法師(ちゅうげんほうし)・奴婢(ぬひ)といった者たちでした。上級の僧侶たちの身の回りの世話をするのが、彼らのつとめでした。

しかし、「堂衆」もしだいに力をつけていきます。結託して、組合のようなものを作り、上級の僧侶たちと武力でもって争うようになります。

延暦寺ではたびたび「大衆」「衆徒」と
「堂衆」の間で争いが起こりました。

また、「堂衆」をふくむ大寺社のかかえる僧侶全体を
「大衆」「衆徒」と呼ぶ場合もあるようです。

また、「大衆」「衆徒」・「堂衆」の別にかかわらず、
武力にすぐれた僧を「悪僧」と称しました。

僧兵・大衆・衆徒・堂衆・悪僧
僧兵・大衆・衆徒・堂衆・悪僧

ようするに言葉の定義はかなりあいまいです。
また寺によって呼び方もまちまちなので、
(歴史用語としては間違っていても)
一般的に「僧兵」を使う場合が多いようです。

次回「源義親追討事件」に続きます。

解説:左大臣光永

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