後三条天皇の改革

後三条天皇の即位(1068年)

平忠常の乱前九年の役など
地方での反乱がふえていた中、
1068年、後三条天皇が父後朱雀天皇の遺言によって即位します。

後三条天皇は、170年ぶりに藤原氏を母方の祖父に
持たない天皇でした。

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宇多天皇の時代以来、天皇家の外戚として
権力をふるってきた藤原氏(摂関家)…。

ここにその伝統が170年ぶりに覆されたのです。

関白藤原頼通の危惧

関白藤原頼通は後三条天皇が東宮時代から、
藤原氏と姻戚関係が無いことを見て
あやぶんでいました。

(このまま即位されてしまっては
摂関家にとって大問題だ…)

その恐れが、いよいよ本当のものと
なってしまったのです。

一方、後三条天皇は水を得た魚とばかりに、
国政の立て直しをはかりました。

しかも今までの天皇と違い、摂関家に
遠慮する必要は無いのです。

「もう摂関家の好きにはさせぬ。
ふたたび天皇家に、政治を取り戻すのじゃ」

延久の荘園整理令(1069年)

後三条天皇は天皇みずからが政治を行う
親政によって、数々の改革を断行しました。

1069年、延久の荘園整理令を発布します。

それまで藤原氏や大寺社の荘園は年々増え続け、
公領(国衙領…朝廷の土地)を圧迫していました。

そこで、後三条天皇は藤原氏の経済地盤を弱め、
天皇家の経済地盤を強める意図をもって、
荘園整理を断行しました。

同時に記録荘園券契所(略して記録所)を
設けます。荘園の調査機関です。

書類不備であったり身元のハッキリしない荘園は
容赦なく没収していきました。
摂関家の荘園ももちろん例外ではありませんでした。

「ここは、摂関家の領土ですぞ!」
「だから何だ。出て行け」

こんな感じでしょうか。これら「延久の荘園整理令」と
「記録荘園券契所」により、摂関家や大寺社の経済基盤は
大きくゆるがされました。

ちなみに記録所(記録荘園券契所)は
その後も何度か名前を変えながら復活し、
天皇親政の象徴のように見られていました。

延久の宣旨枡

また後三条天皇の改革として有名なものに、
「延久の宣旨枡」があります。

枡の大きさは律令によって規定されていましたが、
実際にはまちまちで、それぞれ自分勝手に枡を作っていました。

「これは争いのもとである。
全国で枡の規格を一つにすることが必要である」

こうして後三条天皇がさだめた枡の規格が
「延久の宣旨枡」です。

以後、米の取引や年貢の徴収がうまくいくようになりました。
「延久の宣旨枡」は、再び私枡が増える南北朝時代まで使われ続けました。

譲位(1072年)

このように、数々の改革を断行した後三条天皇でしたが、
在位4年目の延久4年(1072年)、第一皇子貞仁親王に譲位。

貞仁親王が白河天皇として即位します。

後三条天皇が白河天皇に譲位した意図は不明です。
上皇として政治を行う意図があった。つまり、「院政」の
さきがけとなったという説もありますが、
ハッキリとはわかりません。

譲位に際して、後三条天皇は息子白河天皇に
次の天皇は弟の実仁親王(さねひとしんのう)か
輔仁親王(すけひとしんのう)と名指しされていました。

「それを条件に、お前を即位させるのだからな。
弟たちを無下にしてはならぬぞ」
「父上のおっしゃること、違えるはずがございません」

しかし、結果として父後三条天皇の約束は
守られないことになります。

譲位の翌年の1073年、後三条天皇(上皇)は崩御しました。

続き「後三年の役(一)八幡太郎義家」です。

解説:左大臣光永

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