後三年の役(四) 金沢柵の戦い

こんにちは。左大臣光永です。土日、いかがだったでしょうか?私は消耗品の買い出しなどで、なんとなく終わってしまいましたが…外はじっとり暑く、湿気も強くなってきました。今年の夏も大変そうですが…お互いに、がんばっていきましょう。

さて先日発売したDVD「朗読 孫子の兵法」にあわせて、
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4回にわたって八幡太郎義家と後三年合戦の話をおとどけしてきました。今回は4回シリーズの最終回「金沢の柵の戦い」です。

▼音声が再生されます▼

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長引く籠城戦

寛治元年(1087年)。

源義家・清原清衡連合軍は、金沢柵にたてこもる清原家衡・武衡連合軍を取り囲んでいました。

寛治元年(1087年)の状況
寛治元年(1087年)の状況

「なんとしても…雪がふり出す前に金沢の柵を落とさなければ」

難攻不落の金沢の柵は簡単には落ちませんでした。城を包囲してからすでに秋が過ぎ、冬となり、ふたたび雪の季節が迫っていました。ここでまた雪が降ってきたら…昨年の沼柵の戦いの再現となってしまいます。義家は何よりそれを恐れていました。

一方、金沢城内も、飢えと寒さに苦しんでいました。

「仕方がない。こうなったら女子供だけでも逃がそう。いかな八幡太郎とても、まさか女子供まで殺すまい」

清衡武衡は、城内にいた一族郎党のうち、戦えない妻や子供らを城外へ逃がすことにしました。女たちは、夫と離ればなれになることは身を裂かれる思いでしたが、この寒さではどうにもならないと、結局金沢の柵を出ることにします。

その頃、義家の陣営では、吉彦秀武が義家に進言していました。

「女子供が金沢の柵を出ます。一人残らず射殺しましょう」

「女子供を…それは、なんということじゃ」

「女子供まで容赦なく射殺されたとあっては、城の内に残る者どもはますます外に出ることができなくなります。加えてこの寒さです。飢え死にするのは時間の問題。味方に損害を出さず、敵を滅ぼすことができましょう」

「しかし、女子供を…!」

「このまま包囲を続ければ、戦は長引き消耗戦となり、双方に甚大な被害が出ましょう。殿、今こそご決断を」

「う…ううう…」

結局、義家は攻撃を許可しました。

八幡太郎はおそろしや

「それっ、御大将の下知であるぞ。一人残らず射殺せーーーッ」

「えっ?」
「なに?」

ヒョウ、ヒョウ、ドスッ、ドスッ

「きゃあああ」「ひいいいい」

女子供は攻撃されない。そう言い含められて、安心して外に出てきたところへ、容赦なく矢が浴びせかけられます。

「い、いやあああああ」「助けてえ」
「待てい」

必死で逃げていく女たちの後から、義家軍の兵士が迫り、ズバア、ズバアと切り殺しました。そこかしこで、容赦ない殺戮が行われます。女たちの中には小さな赤子をかかえたまま殺されたものもありました。

吉彦秀武の予測どおり、以後金沢の柵から出てくる者はなくなりました。城内は食糧が尽き、飢えと寒さで次々と人が死んでいきました。

「もはや…これまで…火を放て」

ボッ、ボッ、ボボオーーーッ

寛治元年(1087年11月14日夜、清衡家衡は、もはやかなわじと見て城内の館に火をつけました。

「うわあああああ」「ひいいいいいい」

四方へ逃げ惑う人々。城内に乱入する義家軍。

「一人残らず殺せーーっ」
「ひ、ひいい…ひいぃぃぃ…」

義家軍は弱り切った城兵をさんざんに殺戮し城内は阿鼻叫喚の地獄絵図となりました。清原武衡は池に飛び込んで身をひそめていましたが、義家軍に発見され、義家の前に引っ張られてきます。

「この謀反人めが。斬り捨てよ」

「どうか、どうか一日だけでも助命のほどを…!!」

「ならぬ」

そこで弟の義光が兄義家をなだめます。

「兄上、降人を許すのが、古来、兵のならいです!」

しかし義家はせせら笑って言いました。

「義光、降人とはな、戦いの場をのがれ、自ら首を差し出してきた者を言うのだ。戦いの場で生け捕りにされ、見苦しく命乞いをするのは降人とは言わぬ」

それ以上義光は返す言葉がなく、武衡は斬られました。

清原家衡は身をやつして変装して逃げ延びようとしますが、捕えられて斬られました。懸念されていた雪は降りませんでした。

五年間にわたった「後三年の役」は、こうして終わりました。

八幡太郎義家の金沢柵での虐殺、容赦ない戦後処理のことは京都まできこえ、「八幡太郎はおそろしや」と今様に歌われました。

恩賞得られず

金沢の柵を落とした義家は、多賀城に戻り、上洛する準備を整えていました。

「兄上、今回の働きは大きかったですぞ。
上皇さまより、さぞかしお褒めをいだけることでしょう」

「うむ。合戦の次第はすでに書状に記して京へ送ってある。
いずれご沙汰があるだろう」

しかし、義家には不安がありました。

今回の戦いは、義家が源氏の奥州における権力地盤の確立を求めて行ったというのが実際のところでした。

先の前九年合戦で半ば権力地盤を築けそうだったところを、辛くも清原氏に奪われた恨みがありました。そこへ今回、たまたま陸奥守に任命された所、清原氏の内紛が起こったのです。

義家は長年の願いであった奥州での権力地盤の確立をねらって、つまり私利私欲によって、清原氏の内紛に武力介入したのでした。

義理や義憤で戦いをはじめたわけではないのです。

奥州で採れる砂金。馬。豊富な物資。それは武士にとって、この上もなく魅力的なものだったのです。そこへたまたま起こった清原氏の内紛。武力介入するのに、絶好の好機でした。

しかし私的な戦いでは恩賞が得られませんから、大義名分が必要でした。そこで義家は、清原氏の戦いを「国司」への反乱。つまり国家権力への反乱とみて、院から正式に清原氏追討の官符(命令書)を出してもらうよう、再三奏上していたのでした。

今回の戦いは私的な争いではなく、国家権力に対する反乱を鎮圧するための、正義の戦である。公に、そう認められる必要がありました。そのためには、どうしても院から下される清原氏追討の官符(命令書)が必要だったのです。

しかし白河上皇は、義家の訴えを退けました。

「これは義家のわたくし事ではないか。勝手に騒ぎを大きくしたその罪、許し難いものがある」

よって清原氏追討の官符は下さない。恩賞も出さないというのが院の公式見解でした。事実、今回の戦いは義家の私利私欲から出たものだということもありますが、それ以上に、白河上皇は義家の勢力がこれ以上強くなることを恐れていたのでした。

院としては源氏にせよ、平氏にせよ、武士が力をもって、いずれ朝廷や院をもしのぐほどの勢いになることが、もっとも恐ろしいことでした。そのため、長年にわたって源氏がのびれば平氏に討たせ、平氏がのびれば源氏に討たせ、うまくやってきたわけです。

このような院の思惑により、清原氏追討の官符は下されず、恩賞も出ませんでした。結局、後三年合戦は義家の私の戦いということにされてしまいました。

「これでは…命を落とした者たちは、犬死ではないか…」

ガックリと膝をつく義家。おやかたさま、あのう、俺たち戦った恩賞は。院から返事が届いた。今回の戦いは私の戦いとみなされ、したがって恩賞は、無い。えっ、ええっ、そんなおやかたさま。じゃあ、あっしらは。心配するな。お前たちへの恩賞は、私から行う。

義家は私財をなげうって武士たちに与えました。おおーーさすが源氏の棟梁だ。太っ腹だ!もうこんなものいらないや。皆は持っていた敵の首をゴロン、ゴロンと道端に投げ捨てました。

さらに義家は陸奥守を解任され都に戻されます。

また義家は合戦の間、政府や寺社に税として収めるべき物資や米を軍備にあて戦後は郎党たちへの恩賞にあてました。そのため政府に莫大な負債を作ってしまいました。

上洛後、義家はそのことを追及され、以後10年ほど新しい官職も得られず「前陸奥守」のままでした。

つまり、後三年合戦は義家個人について見ると完全な失敗でした。

何ら得るものはありませんでした。

しかし私財をなげうって恩賞を行った剛毅さは語り草となり、関東で源氏の結束を強めることとなります。これより100年ほど後、源頼朝が登場する下地を整えることとなりました。

奥州藤原氏のはじまり

一方、清原氏の中でただ一人生き残った清原清衡は、家衡・武衡の領土を受け継ぎ、奥州に広大な領土を所有する支配者となりました。

ところで清原清衡には清原氏の血は一滴も通っていません。

藤原清衡
藤原清衡

先の前九年合戦で討たれた藤原経清という者が清衡の実の父です。父が亡くなった後、母が清原氏と再婚したたために清原の姓になったのでした。

今や清衡は、姓をほんとうの父親の姓、藤原に戻し、藤原清衡と名乗りました。以後、四代にわたり奥州に一大勢力を築く、奥州藤原氏のはじまりです。

「しかし…妻を失い、子を失い…多くの同朋を失った。広大な土地を得たところで、何になるというのだ。死んだ者はもう生き返らないというのに…」

そこで清衡は前九年合戦・後三年合戦で討たれた人たちの霊をなぐさめるため、平泉に広大な寺院を築きます。中尊寺です。

しかし源氏としては八幡太郎義家が得るはずであった奥州の利権を、なんら働きもなかった藤原清衡がかすめとった、という恨みが残りました。

この恨みは100年以上後までひきずります。

(おのれ奥州藤原氏。われらが祖先八幡太郎義家の積年の恨み、忘れぬぞ。いつか、きっと攻め滅ぼしてくれる…)

そして実際にその恨みを晴らし、奥州藤原氏を亡ぼしたのが、義家から4代目の子孫の、源頼朝です。

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解説:左大臣光永

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