後三年の役(二)新羅三郎義光の着陣

源義家が陸奥守として多賀城に入ると、清原真衡は三日間にわたり、盛大な歓迎の宴を開きます。

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「いやはや、天下第一の武人たる義家殿がこの陸奥に赴任してくださるとは。こんなに頼もしいことは無いです。さあさあ、もう一献」

「はあ。恐縮です…しかし真衡殿、失礼ながら苦しいお立場のようですなあ」

「そ…そうなのです。清原の家長である私をないがしろにして、まったくけしからんことです!」

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真衡は同族である吉彦秀武・家衡・清衡らと敵対し、身動きが取れない状況でした。そこで武勇のほまれ高い源義家が赴任するや、真っ先に癒着をはかったのは、助けを得ようという考えからでした。

一方、義家のほうも、清原氏のお家騒動に武力介入し、奥州に権力の地盤を築けるかも…という計算が働いていました。清原氏内部で争わせておいて、疲れ切ったところで自分が利益をいただく…そうすれば、おいしい汁がすえそうでした。

というわけで、源義家と清原真衡。双方、腹に一物かかえ、さぐりあいをしつつ、宴会は三日間に及びます。

真衡の急死

「では、私は賊を討ちに向かいます」

三日目に、真衡は郎党を率いて、一方の敵・吉彦秀武を討つために出羽に出陣していきました。真衡の館が留守になると、すぐに家衡・清衡が攻め寄せてきます。

「それっ。一気に焼き払えーーーっ」

ヒュン、ヒュン、ヒュン

「おのれ、父の留守は命がけで守る!」

結婚したばかりの真衡の養子成衡と、真衡の妻がよく防いで戦います。そこへ、

「ご助力ーーッ」

ドカカッ、ドカカッ、ドカカッ

「おお!八幡太郎義家殿」

「八幡太郎義家殿が来てくださった!」

「なにィ!八幡太郎義家」

味方は喜び、敵はビビリます。先の前九年合戦における八幡太郎義家の鬼神のごとき働きは、奥州で知らぬものはありませんでした。

義家はひるんだ家衡・清衡をさんざんに打ち破り、撃退しました。

(ふう。これで真衡殿に貸しが一つ作れたわい)

安心したのもつかの間、そこへ思いもかけない知らせが届きます。

「なに!真衡殿が亡くなった!」

真衡は出羽へ遠征する途中に病にかかり、亡くなったのでした。もっとも暗殺されたという説もありますが…奥州一帯を支配する清原氏の惣領・清原真衡のあっけない最期でした。

土地の分与

その後、家衡・清衡の両者はかなわじと見て義家に降参してきました。しかし真衡が亡くなった今、家衡・清衡を処罰する理由も無くなってしまいました。

「もうそなたたちが争う理由はあるまい。真衡殿が所有していた奥六郡は、三郡ずつ、そなたたちに分け与えよう。これでもう争いは無しじゃ」

「ははっ」

「ははーーっ」

しかし、義家は不満が残ることを計算に入れて、家衡・清衡に土地を分けたかもしれません。清原氏の内部抗争に乗じての武力介入を狙う義家にとって、簡単に争いが終わってくれては困るのでした。

案の定、二人のうち家衡のほうは納得いかず、不満をたぎらせていました。

「ワシこそが清原の嫡流なのだ。奥六郡は当然ワシが所有してしかるべきものだ」

八幡太郎、起つ

1085年、家衡は清衡の館を襲い、清衡の妻子を殺害します。

清衡は命からがら館を抜け出し、義家の館にたどり着きます。事情をきいた義家は怒りにふるえます。

「女子供まで殺すとはなんたる残虐。家衡、許すまじ!」

「義家殿、では!」

「これより八幡太郎義家は、清衡殿にお味方いたす!」

「おお…」

こうして義家は清衡を助けて、家衡と戦うこととなりました。必ずしも義憤や正義感から出た行動ではなく、清原家の内部抗争に武力介入し、奥州に権力の地盤を築こうという狙いから出た行動でした。

奥州は貴族たちから見れば不毛の地でしたが、武士にとっては馬や鉄・鷲の羽など武具・防具の製作に必要な物資が豊富な、魅力的な場所だったのです。

沼柵の戦い

翌1086年の冬、義家・清衡連合軍は家衡の立てこもる沼柵(ぬまのさく)を包囲しました。すぐに勝てると思いきや、敵は沼柵にたてこもり、籠城戦が数か月に及びました。

後三年の役 地図
後三年の役 地図

ヒューーー、ヒュゴーーー

「う…ううう寒い」

「腹減ったよォ~」

「お、おい、しっかりしろ」

寒さと飢えで、凍死者が続出します。

「義家さま、これでは戦など、とても無理です」

「ぐぬぬ…やむを得ぬ。いったん退け」

義家・清衡連合軍は撤退するしかありませんでした。

「撤退させたぞッ!八幡太郎義家をーーッ!」

ワァーーーー

武名とどろく八幡太郎を撤退させたとあって、家衡の陣営では大いに士気が上がります。凱旋気分で一同が館に戻ってきたところ、家衡の叔父の武衡が訪ねて来ます。

「いやぁようやった。八幡太郎を敵にまわして退けるとは。見事」

「そうは言いますが叔父上、敵は寒さで退却しただけです。季節が味方してくれなければ守り切れていたかどうか」

「それよ。沼柵では守りが心もとない。この際、全軍を金沢の柵に移動させるべきぞ」

「金沢の柵…」

金沢柵は秋田県横手市にあったとされる城柵(砦)です。四方を断崖絶壁に囲まれた天然の要害でした。家衡は叔父武衡のすすめにより全軍を金沢柵に移動させ籠城戦にそなえます。

新羅三郎義光の着陣

一方、源義家・清衡連合軍も新しい味方を迎えていました。

「兄上の苦戦ときき、都より駆けつけました」

「義光。お前来てくれれば心強い。家衡・武衡 なにするものぞ」

新羅三郎義光は、源義家の弟です。

義家の三人兄弟は、別々の神社で元服しました。長男の義家は京都の石清水八幡宮で元服したので八幡太郎義家。次男の義綱は賀茂神社で元服したので加茂次郎義綱。そして三男の義光は大津の三井寺で元服したので、三井寺の守護神・新羅明神にちなんで、新羅三郎義光といいました。

義家三兄弟
義家三兄弟

源義家と雁の列

将軍のいくさ、すでに金沢の柵にいたりつきぬ。雲霞(うんか)のごとくして野山をかくせり。一行の斜雁(しゃがん)の雲上(うんじょう)をわたるあり。雁、陣たちまちにやぶれて四方(よも)にちりてとぶ。将軍、はるかにこれをみてあやしみおどろきて、兵をして野辺をふましむ。案のごとく、叢(くさむら)の中より、三十余騎の兵を尋(たずね)えたり。これ、武衡かくしをけるなり。将軍の兵、これをいるに、かずを尽して得られぬ。義家の朝臣(あそん)、先年宇治殿へ参じて貞任(さだとう)をせめし事など申けるを、江師(ごうのそつ)匡房卿たちきゝて、「器量はよき武士(もののふ)の、合戦の道をしらぬよ」と独ごち給けるを、義家が郎党等聞て、「わが主(しゅう)ほどの兵(つわもの)をけやけき事いふ翁(おきな)かな」と思つゝ、義家に此由(このよし)をかたる。義家、れを聞て、「さる事もあるらむ」とて、江師(ごうのそつ)の出られける所によりて、ことさら、会釈しつゝ、其後(そののち)、彼(かの)卿(きょう)にあひて文をよみけり。義家は「われ文のみちをうかゞはずば、こゝにて武衡(たけひら)がためにやぶられなまし」とぞいひける。兵、野に伏ときに、雁、つらをやぶるといふこと侍(はべる)とかや。

『後三年合戦絵詞』より

新羅三郎義光は金沢柵で苦戦している兄義家を助けるため、佐兵衛尉を退いてかけつけたと言われていますが、実際には白河上皇に何度も陸奥下向を願ったが許されなかったため、勝手に飛び出してきたところ、解任されたということらしいです。

これより100年ほど後、打倒平家に立ちあがった源頼朝は、富士川の合戦で平家軍を退けた後、黄瀬川の宿にかけつけた弟・義経を迎えます。その時頼朝は、その昔後三年合戦の時、八幡太郎義家をたすけんと弟の新羅三郎義光がかけつけた様もこうであったかと、よろこびました。

ちなみにこの新羅三郎義光、あの武田信玄の先祖にあたる人物です。

次回、「八幡太郎義家と孫子の兵法」です。お楽しみに。

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解説:左大臣光永

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