平清盛の福原「遷都」

治承4年(1180年)5月30日。

先の宇治平等院での合戦の論功行賞が行われた席で、平清盛はとんでも無いことを言い出します。

「福原へ都を遷す!」
「は?…相国さま、何とおっしゃいましたか?」

「福原へ都を遷すのだ!今回の以仁王の件では、園城寺、興福寺が生意気にも足をひっぱりおった。また延暦寺とていつ平家の敵となるか知れたものでは無い!京にいる限り、いちいち坊主どもの機嫌をうかがわねばならん。もう耐えられぬッ!」

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「しかしだからといって…平安京は桓武天皇がお開きになって以来400年の歴史があり、また平氏発祥の地でもあります。いきなり遷都というのは…」

「やかましい!遷すといったら遷す!」

無謀すぎた遷都計画

5月30日に遷都を決定。

6月2日早朝、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をつれて都を出ます。その夜は摂津大物浦(だいもつのうら。現兵庫県尼崎のあたり)で一泊。翌3日早朝に福原に入ります。

清盛をネタに観光を盛り上げようという神戸には悪いんですが、清盛の福原遷都計画は、無謀というほか無いものでした。

比叡山や興福寺、園城寺などの寺社勢力から距離を置く、ということが一番の動機だったようですが…。

いきなり都を移すといっても、京都は歴史がある町です。代々の御屋敷とかあるわけじゃないですか。カンタンな話じゃないです。新しい屋敷も手配できない。京都の館を壊して、その私財を車に乗せて、福原までもっていって、それで館を建てた人もいました。

立派な御屋敷のある貴族もそうですけど、庶民も大変だったでしょうね。商売やってたら、お得意さんがあるわけじゃないですか。

堀川の御屋敷のダンナは、代々うちの織物をひいきにしてくれるんだ、なんて言ってたのが、いきなり都移りで、引っ越していっちゃう、暮らしがメチャクチャになります。

「はあ…相国さまは何を考えておられるのだ!」
「もうだいぶ御年だし、アレかなあ…」
なんてことを言い合っていたかもしれません。

福原側にも受け入れ態勢がまったく整っていませんでした。天皇や上皇がお住まいになる御所すらなく、仕方なく平家一門の館に入り、仮の御所としましたが、お供に付き添ってきた人々はロクな宿所も無く、道端で座り込むというありさまでした。

また福原は都を築くには幅が無さすぎました。北はすぐに山、南はすぐに海です。

京都の町は中国の長安にならい、北から一条二条三条四条と通りが整然と並びますが、福原には五条までしか通りを作る余裕がありませんでした。

踏んだり蹴ったり

また福原遷都騒動の間、悪いことが重なります。干ばつと疫病の流行。高倉上皇も重い病にかかってしまいます。

そして、以仁王の令旨を受け、8月には伊豆で源頼朝が平家の代官山木兼隆の館を襲撃。9月には信濃で木曽義仲が平家方の笠原頼直(かさわらよりただ)を越後に追います。

10月には富士川で源頼朝の率いる軍勢に平家軍が大敗。踏んだり蹴ったりです。平家の内部からも不満の声が上がります。

「都遷しなんて、どだいムリだったんです。話にならないッ!」
「なにッ!!」

普段はおとなしく清盛に逆らわない三男の宗盛が、今度ばかりは清盛と激しく言い争い、皆を驚かせました(『玉葉』治承4年11月5日条)。

さらに、遷都に不満をいだく比叡山延暦寺が脅迫をかけてきます。京都にもどらないと、山城と近江を占領すると!

「くっ…致し方ない。京に都を戻そう」

11月26日安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇以下、平家一門の人々こぞって福原から京都へ引き上げます。こうして福原遷都計画は、わずか半年で挫折しました。

車や馬がダーーと街道いっぱいに満ち満ちている、その中に清盛を乗せた車も、引き上げていく。くそっ、わずか半年で引き揚げとは!さぞや清盛、地団太を踏んだことでしょう。

次回「源頼朝の挙兵」に続きます。

解説:左大臣光永

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